瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

青い鳥

ヴィパッサナー瞑想は「気づきの瞑想」と呼ばれますが、瞑想する目的は気づくことそれ自体、あるいは気づきによって何かを「悟る」ことではなく、「今この瞬間に心を置き続けられるようになる」ことなのではないか――最近はそんな風に思うようになりました。
 
今この瞬間に心を置き続けられれば、悩みや苦しみの大半はなくなります。なぜなら、悩みや苦しみは、本質的には過去と未来にしか存在し得ないものだから…。
けれど、言葉にすれば簡単な「今この瞬間に心を置く」ということが、実はとても難しい。感情への執着を自由に手放せるようになってはじめて、「"今ここ"こそが涅槃である」という言葉が現実的な響きを帯びてくる。
 
それは、チルチルとミチルが大冒険の果てに「幸せの青い鳥は実は自分の家にいた」と気づいたことに、どこか似ているような気がします。
 
修行を通じて何かをつかもうとするな、どこかにたどり着こうとするな…とはよく言われる事ですが、強いていうなら、瞑想を通じて最終的にたどり着く境地は「どこにもたどり着く必要はなかった」と気づくことなのかもしれません。
 

笑顔をおもう

最近、いわゆる「慈悲の瞑想」をあまりやらなくなりました。

そのかわり、というわけでもないのですが、ふと時間ができた時などに誰かの笑顔を思い浮かべています。

 

私が慈悲の瞑想をしていたのは、生きる上での苦しみを少しでも減らしたいという思いからでした。

ひとの苦しみは、その大半が人間関係に根ざすものではないかと思います。そして、人間関係の苦しみを生み出すのは、自分と誰かとの間に横たわる垣根です。自分だけを守りたい、自分に害をなす他者を排除したいという気持ちが他者との軋轢のもととなり、逆に自分を苦しめる。

慈悲の瞑想とは突き詰めていえば、「私は人と争いません」という自己暗示のようなものだと思っています。自分にするのと同じようにひとの幸せを祈ることで、自分と他者とを隔てる垣根を取り去り、そこに生まれる軋轢をなくす。

それは私に一定の効果をもたらしてくれていましたが、ある時ふと相手の幸せそうな笑顔を思い浮かべてみたら、言葉で念じるよりもずっと確かな感覚を覚えたのです。言葉とイメージのどちらがより強く心に訴えかけるのか、この辺は人によって違いがあるのかもしれません。

誰かが心から嬉しそうに笑っているところを思い浮かべると、理屈抜きで自分もほっこり幸せな気持ちになります。そして、おそらくは自分が幸せな気持ちになるからこそ、「この人がずっとこういう笑顔で幸せそうに笑っていてくれたらいいな」という気持ちが自然に心に生じて来る。それは私にとって、「生きとし生けるものが…」と呪文のように繰り返すよりは「分かりやすい」ことでした。

 

身近な人との諍いがあってなんとなく気分が塞ぐとき、あるいは行きずりの人から理不尽な攻撃を受けてつい怒りが生まれた時などは、心の中で相手を責めるかわりにその人が嬉しそうに笑っているところを思い浮かべてみると、心の中にわだかまっていたものがスッと溶けていくようです。

 

真の意味での「慈悲」というのは、自分と他人を隔てる壁が完全に取り去られた時に、自然に湧いてくるものなのではないかと想像しています。

今の私はまだそこまでできた人間ではありませんが、生きにくいこの世を少しでも安寧に生きていくために「慈悲もどき」の力を借りるのは、十分に意味のあることだと思うのです。

 

 

トグルスイッチ

思考することと「今」に意識を置くことは、トグルスイッチで切り替えられる電気回路の流れに似ていると思います。

思考モードにはまっている時は、「今」に意識を置けていない。今、この瞬間に留まっている時は、思考は姿を潜めている。

 

瞑想実践を始めたばかりの頃、このスイッチはほとんどの時間「思考」側に倒れていました。そのうちに目まぐるしくオンオフを繰り返すようになり、最近は自分の意思でどちらかに倒すことができるようになりつつあります。

道を歩いている時、キッチンで皿を洗っている時など、ふと気づくと思考モードにはまっていることがある。それが必要な思考であれば考えるべきことだけ考えて、考え終えたら「思考したい」という欲を手放すことでスイッチを「今」の側に倒すのです。

「今」に意識を置き続けるということは、思考したいという感情への執着を手放し続けるということでもあるかもしれません。

 

瞑想修行とは、究極的にはこのスイッチを常に「今」の側に倒しておけるように心を鍛えることなのでしょう。それは「思考が悪で思考しないことが善だから」というような話ではありませんが、一つ確かに言えるのは、いわゆるダルマ(法)を観るための智慧は、スイッチが「今」の側に倒れている時にしか生じてこないということです。

 

初期仏教でも禅宗でも、道を極めたと言われる方の言葉には、その根底に共通するエッセンスがあるように思います。そうした方々が口を揃えて仰るの が、「修行によって何かをつかもうとするな」ということです。その根拠は「物欲しげで見苦しいから」というようなことではなく、「何かをつかもう」という姿勢が思考モードであり、そちらにスイッチが倒れている限りは掴みたいものを掴むことはできないから…そういうことなのではないかなと、私なりに解釈しています。

 

この記事を書いている今、私のスイッチは思考の側に倒れています。記事を書かせた原動力は自己顕示欲 で、書いた記事に思うような反応が得られなければ不満という「苦」に直面するのでしょう。

そういうことが頭で分かっていながらそれでも記事を書くのは、今の私がまだ欲や慢心を克服できていないからです。

そういう自分を脚色せず、せめてありのままの自分の心を観察しながら「公開」ボタンをクリックしたいと思うのです。

 

現世欲との折り合い

「冥想によって到達する境地と現世欲との折り合いをどうつけるか」

…一般社会に身を置きながらヴィパッサナー冥想に取り組む方は、遅かれ早かれこの命題と向き合うことになるのではないかと思います。

 

ブッダは人を苦しめるのは煩悩である、と説きました。煩悩の源泉となる欲、怒り、無知の三つの不善を心から取り除いていくことが苦しみから自由になる道であり、そのための究極の手段が、自分という宇宙を観じてこの世の法則を見出すヴィパッサナーである、と。

 

その言葉が示す通り、この世を統べる法則を理解する深度に比例する形で、欲や怒りといった煩悩を遠ざけたいという気持ちが高まります。「やってはいけない」からやらないのではなく、「やれば苦しむことが分かっている」からやめよう、と考えるようになる。

たとえば長年の間に焼き付けられてきた「回路」は、「飲み会に参加してみんなでワイワイやれば楽しいよ、参加しようよ」とせがんできます。しかし、そのいっときの楽しみの後に来る倦怠、酒を飲んでやくたいもない事を喋りまくったことへの後悔などを考えると、「まぁ、やめておくか」ということになる。

 

欲や怒りを抑えて維持する平穏な日常は、確かに心地よいものであり、それが間違ってはいないということに対する確信があります。しかしその一方で、

「でも、本当にこれでいいのか?」

と頭の片隅で囁く声を握りつぶしきれずにいる自分にも気づく…敢えて言葉にするなら、そんな感じでしょうか。

 

物欲に任せて高価な宝石を買い漁ったり、旨いものを食い散らかしたりするのは虚しいことだ、というのような話は分かりやすい。でも、仕事を頑張って成功したいとか、人類の役に立ちたいとかいう、一見「よいこと」に見える欲はどうなのか。

欲と意欲は別だと言われるものの、大抵はそうした意欲の底にも、自己顕示欲という名の小さな不善が巧妙に隠れているものです。そうしたことを全て否定するのが正しい道だとしたら、世界が存在することがそもそもの間違いの元なのだということになりはすまいか…そんな葛藤が時折心を掠めるのを、どうすることもできません。

 

※※※

先日、大学で経済を学んでいる長男から、学校を一年休学して数学を勉強し、他の学校の工学部を受け直したいと相談を受けました。彼に何があったのかは知りませんが、もっと世界のことを学び、孫正義のようにこの社会を変える人間になりたい、というのです。

その話を聞いた時、彼の意欲を好ましく思う気持ちと、「所詮この世界は捉えようもない大きな因果の流れ中で問答無用で動いているのであって、一人の人間がなにをどうしたところで大した違いはなかろう…」とでもいうような厭世的な気持ちと、相反する二つの気持ちが心の中に生まれました。

親として彼に見せたのは前者ですが、そうしながらも、彼の若い意欲を悲しい気持ちで眺める自分がいたのも事実です。

 

この問いに対する明確な答えを、今のところ私は見いだせていませんが、そうした葛藤による苦しみを手放す唯一の道は「考えない事」であり、そのためにすべきことが「今この瞬間に意識を置く」ことであるのは分かっています。

お名前は失念しましたが、以前読んだある本の中に、禅宗の老師が法話中にいきなり「パン!」と手を叩いて「これが全てでしょう」と聴衆に告げる場面がありました。結局、そういうことなのでしょうね。

 

生きることはそもそも苦しみであり、それが分かっていながらも、生まれた以上は生きていくしかありません。

人それぞれ、あるいは人生のステージごとに選ぶ生き方があり、現世欲をバネに飛躍して成長する人・時もある。そうしたことを否定するのではなく、それすらも一つの現象として淡々と受け流しながら生きていく…今の私は、そうした生き方を好ましく感じているようです。

もしかすると、それがいわゆる「中道」というやつなのですかね(^_^)

こま切れの涅槃

ヴィパッサナー瞑想で自分の感覚を観察し続けていると、「自分」というものに対する認識が徐々に変化していくのに気づきます。

私の感覚でいうと、それは次元を逆行していくイメージに近いかもしれません。

 

かつては立体であったものが、ある時点から時系列にスライスされた平面の集まりのように思えてくる。続いて、その一枚の平面が無数の線で構成されているということに気付く。
そして、瞬時に消えていくそうした線を眺めているうちに、線は線でなく膨大な数の点の集まりであり、どう頑張っても捉えてじっと観察できるようなものではないのだ、ということが分かってきます。

卑近な喩えをつかうなら、「塊肉からスライス肉へ、スライス肉からミンチへ」という感じでしょうか(ちょっと違うかな…)

 

たとえば体のどこかに「痛み」を見つけてそれを観察する。
はじめのうちは「肩」「足」「首」などに「ずっとに痛みがある」という捉え方をしていますが、もう少し詳しく見られるようになってくると、「どうやらこの痛みというやつは、ずっと同じ調子で存在し続けているわけではないようだ」ということがなんとなく分かってくる。更に、そうした一瞬ごとの痛みをじっと観ていると、同じ瞬間にも並行していくつもの痛みがあり、さらにその中にも現れたり消えたりしているたくさんの痛みがあることに気づくのです。

 

そういう、瞬時に現れては消え、現れては消えしてゆく無数の点の痛みは、捕まえておこうとしても到底捕まえられません。便宜上「観察する」と書きましたが、一つひとつの点をじっと見ていることはできず、出たり消えたりする流れというか、波のようなものを遠くから見ている、という表現の方が近いのかもしれません。

しかし、それをなんとか捉えようと一点に集中していると、ある時ふっと「なんにもない点」が意識にのぼります。なんにもない点、というのは表現として破綻していますが、今の私はその感覚を的確に言い表す言葉を持ちません。ある感覚が消え、次に現れる感覚へと意識が移動するまでのほんの刹那にたまたま意識のスポットが当たった時に、そういう感覚が生まれる、そういうことなのではないかな、と今は想像しています。

 

私とヴィパッサナーとの間に最初の縁を結んでくれたのは、高田さんという方の書かれた『「一秒」禅』という本の中で紹介されていたブッダの言葉です。 

 

「不思議だ、不思議だ、生きとし生けるものは仏の智慧と徳を持っているのだ。しかし、煩悩と執着があるので、それに気付くことが出来ないのだ」

 

誰の心の中にも仏と同じ智慧があり、その気になればどこまでも平らかな心の境地(涅槃)に到達できる可能性がある。その言葉は、当時抑えようにも抑えられないどす黒い怒りで苦しんでいた私には、まさに地獄の上から垂らされた蜘蛛の糸のように思えました。

 

あれから7年、残念ながらまだ「どこまでも平かな心の境地」にはたどり着けていませんが、前述したような「なんにもない点」が意識にのぼった時、直後にふとブッダのこの言葉を思い出すことがあります。

今はこま切れの点でしかないこの瞬間が、線になり、面になり、そしてあたかもひとつのかたまりであるかのように感じられるようになった時に訪れるのがいわゆる「涅槃」という境地なのだろうか…まぁ、ある種のファンタジーですけれど(笑)、今のところは漠然とそんな風に思っています。

 

 

岸辺に上がる

少々思うところあって、しばらくブログの更新をお休みしていました。
ブログから少し距離を置いてみて見えてきたことなどがあり、今日はそのことについて書いてみようと思います。

 

距離を置こうと考えたのは、思考への執着をなんとかしたいと思ったからです。

人間は思考するものですし、それ自体の良し悪しについて一般的に論じることにはたいして意味はないと思っています。ただ、その時の私はのべつまくなし脳内に垂れ流される「文章」に辟易していて、どうにかしてこれを止めることはできないだろうかと考えていたのです。

 

いわゆる「サティを入れる」という状態にあるとき、「思考」は一時的に止まっています。その状態はとても安楽なので、瞑想を続けるうちにこの状態をずっと保ちたいと考えるようになりました。それなのに、ふと気づくと頭の中で文章をこねくり回している自分がいる。これは一体なぜなのだろうかということが、長い間不思議でなりませんでした。

 

はじめのうちは、それはいわゆる「業」なのではないかと漠然と考えていました。
作家の佐藤愛子先生がよく、「書くことは私の業だから」という表現を使われます。そういった「物書きの業」みたいなものがあり、私が文章を手放せないのもおそらくそういうことなのだろう、と。

回り続ける文章は、文字として形にしてしまうと不思議なくらいに綺麗に消えてなくなります。だから私は、脳内に淀む文章をなんとか排出するために日々ブログを書き続けていました。

 

でも、ある時ふと、「むしろ”書く場”があるからこそ文章を捻りたくなるのではないのか」という仮説が頭をよぎったのですね。
「文章を排出するためにやむを得ず書く」というのは自分に対する言い訳で、「ブログを書く」という目的を設定しているからこそ、私は常に頭の中で文章を組み立てようとしているのではないか、と。実証しようのない「業」などというもののせいにするよりは、その方がずっと妥当性があります。

そんなわけで、「書く場を断てばダラダラ思考は止まるのか」という仮説を検証する目的で、しばらくプライベートな文章を書くことから距離を置いてみることにしたのです。

 

最後にブログを更新したのは今年の2月でしたので、なんだかんだで5か月近くの休筆となりましたが、予想していた通り、暫定的に「書く場」をなくしたことで、のべつまくなし文章が流れていた私の頭は、ウソのように静かになりました。
そして、文章の流れが止まったのと前後して「サティ」を保てる時間も少しずつ増えていきました。

 

先にも書いたとおり、「思考」それ自体の善悪を論じることにはたいして意味はないと思っています。でも、思考が苦しみを招いていると自ら感じているのなら、一旦そこから離れてみることで見えてくるものがあるかもしれません。私の場合は「書く場」を断つことで「書きたい」という欲求と真っ向から向き合い、その欲求の底に潜んでいた様々な執着と対峙することができたと思っています。

 

美空ひばりさんの歌ではありませんが、私たちの人生は川の流れに似ていると思います。普通はその流れにどっぷり身を浸して、流れる水をリアルに感じながら過ごしている。それはそれで一つの生き方ですが、もう一つ、川岸に上がって流れる川を外から眺めるという生き方が確かにあります。

川岸に上がれば、ひんやりと心地よい水の感触や川底の石の滑らかな質感などを味わうことはできなくなりますが、流れに足を取られて溺れたり、尖った石に足を傷つけられたリして苦しむことから自由になることができる。

今の私は川岸に上がる生き方を目指していますが、5か月のブランクを破って今日またこうしてブログを書いてしまったように、完全に川岸に上がれるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

 

世間に身を置きつつ行う瞑想修行は、流れに入ったり川岸に上がったりを繰り返しながら地道に進めていくものなのかもしれないな、とそんな風に思っています。

 

「怠け」の正体

怠けとは欲である、という話を聞いたことがある。
人は気力が出ない、動くエネルギーがないから怠けるのではなく、「何もしないという状態にとどまっていたい」という欲に動かされ、強大なエネルギーを傾けて怠けている、というようなことだ。

「怠けは欲だ」とおっしゃっていたのはのはスマナサーラさんという初期仏教の僧侶の方なのだが、それを読んで、なるほど、それは確かにそうかもしれないと膝を打った。

Amazonのレビューを見ると、スマナサーラさんの本の読者は強烈なシンパと強烈なアンチに別れるようだが、個人的にはこの方の書かれるものは結構好きである。
仏教にかけられていた神秘のベールを剥ぎ、私のような一般の読者にもわかる形で提示したのは、この方の大きな功績なのではないかと思う。
ライターとしての私のテーマは「難しいことを分かりやすく」であり、そういう点でもこの方の御著書には学ぶところが少なくない。


それはさておき、怠けが欲だと看破してしまうと、怠けと闘うのが格段に楽になる。
「欲と怒りはなんとかできるが怠けは手強い」と語る人は少なくないし、私もそう思っていたが、それはもしかすると怠けの正体を知らなかったからなのかもしれない。
「化物の正体見たり枯れ尾花」という俳句があるが、おそらくそういうことなのだろう。

私たちは無意識のうちに「生き物のデフォルトの状態は止まっていることだ」と考えるけれど、無常が真理であるならば、むしろ動いている状態こそが「ありのまま」なのだろう。動いているのがデフォルトなのに、恐るべき執着心でもって「ここにとどまろう」とするのだから、怠ければ怠けるほど辛くなるのは道理である。

こういう視点の切り替えによって、世界の見え方がガラッと変わることがある。
「怠けは欲である」というのが真実かどうかは分からないが、少なくとも私にとって、この気づきは大きな福音になったと思っている。