瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

タイムラインの自我

ブッダは「自我は幻である」とを説かれたそうだが、最近は脳を研究する学者の間でも、同じようなことが言われ始めているらしい。

fRMIのようなツールが登場したことで、脳のどの部分がどんな心の働きに関係しているのかを視覚的に把握できるようになり、たとえば怒っているときは脳のこのへん、好きな人のことを思い出しているときはあの辺が活性化する、といったことが明らかにされつつある。
しかし、そのような手法をもってしても、自我、すなわち我々が「意識」と呼んでいるものの座が「どこ」にあるかは解明できていないという。

最近読んだ数冊の本の内容を総合すると、意識というのは、脳内で起こる葛藤を一つにまとめ上げる過程で生まれてくるのではなかろうか、という考え方が、最近では主流となりつつあるようだ。

脳の中には無数の小人が住んでいて(比喩である)、外からなにかしら刺激を受けると、その小人たちがどう反応すべきかを個々に主張する。
たとえば美味しそうなケーキを目の前にして、あるものは「食べたい!食べるべきだ」と主張し、あるものは「いや、太るからやめよう」と主張する。身体は一つしかないため、対立を経て最終的にはどれか一つの主張が採用されることになるが、その過程で、我々が「意識」と呼んでいるものが浮かび上がってくる。

以前、瞑想中に雑多な意識のかけらのようなものが猛スピードで出たり消えたりするイメージを見て、「なるほど、私が『私』だと信じていたものの正体はこれか」と愕然としたことがあるが、それはもしかするとこういうことだったのかもしれないなと思う。

※※※

Twitterでたくさんの人をフォローしてタイムラインを眺めていると、これと同じような様子をそこに見いだすことができる。

数千人のTwitterrer(といってもアクティブに発言しているのはそのうちのごく一部だろうけれど…)は、普段はそれぞれが思い思いに色々な事を呟いているが、ひとたび何かが起こると、まるで何かに導かれるかのようにして急速にある一つの状態へと収束していくような動きが現れる。

たとえばどこかで地震が起きると、何人かが瞬時に「揺れた!」とツイートする。それを受けて、「あ、ホントだ揺れてる!」「うちは揺れてないよー」「◯◯地方だけか?」というようなツイートが流れ、最終的に誰かが確かなニュースソースから速報などをリツイートする。

その流れは特定の「誰か」がコントロールしているわけではなく、ただ自然にそのように動いていくのだが、それを外から眺めていると、あたかもタイムラインが一つの意思を持って動いているかのように見える。
「自我は幻である」という一つの真理は、そんなところにもチラリとその姿をあらわす。

真理とは、誰かがあえて語るまでもなくただ厳然としてそこにある法則のことをいうのかもしれない。
そういうものに、自分という最も身近な媒体を通して近づいていく…ヴィパッサナーとは要するに、そういう「修業」なのだろうなとあらためて思う。

心のからくり

瞑想に真面目に取り組むようになってから距離を置いていた音楽に、最近、また少しずつ親しみ始めている。

距離を置こうと思ったのは、音楽に引きずられる感覚を疎ましく感じたからで、また聴いてもいいかなと思ったのは、引きずられそうになる心を引き戻して留めおくことができるようになってきたからだ。

聴いている音楽は以前と同じだが、音楽の楽しみ方は随分変わったと思う。
以前は音の流れに浸り、音と同化して恍惚となるのが音楽を聴く目的だった。今は音楽そのものより、音の流れによって変わる自分の様子を見るのが面白い。

好きな歌の前奏が始まる時の何かを期待するような気持ち、サビの部分が近づくにつれて急速に湧き上がる高揚感、曲が終わりに近づくにつれて現れてくるかすかな寂寥感…そういうものがどこから現れてどういうルートで体を巡り、どのような感情にたどり着くのか、眺めていると、それまで知らなかった自分の仕組みが見えてくる。

なぜ、いつも同じコード進行の曲に心を惹かれてしまうのか、好きなフレーズを聴いている時とそうでない時に、自分の心がどう振る舞うのか、そういうからくりが少しずつ暴かれていく。


執着を捨てるための早道は、対象に執着する心のからくりを見抜くことなのではないだろうか。なぜそれに執着してしまうかを種明かしされると、執着心はスッと冷めてゆく。

執着を手放すということは対象に特別な価値を置かないということで、それは対象を嫌悪することとは違う。
異性を糞袋と見て嫌悪するのではなく、異性に心惹かれる自分の心のからくりを見抜き、最終的には両者に等しい価値を置く…この先も様々なものに囲まれてなお心穏やかに生きていくために、そういう姿勢で世界と対峙していけたらよいなと思う。


外側と内側

心の流れを慎重に観察しつづけていると、外側から受ける刺激と、それによって内側に生まれる感情とが別のものだということが徐々に分かるようになってくる。

それはたとえば、電車の中で電話している人を見て不愉快な気持ちになった…という時に、「電話をかけている人を見た」ことと「それを受けて不愉快に思った」ことが不可分なひとつながりのものではなく、別々のタイミングで生じる独立した感覚だと分かる、というようなことだ。
「大声で電話をかけている人がいて不愉快になった」という一つのできごとに見えていたものが、実は刺激と反応という二つの要素から成り立っていたのだと気づく。

 

私がそのことにはじめて気づいたのは、自宅の台所でシンク台の角にしたたかに足の小指をぶつけた時だった。指がぶつかり、痛みが生じ、
「なぜこんなところにシンクがあるのよ!」
と身勝手な怒りが生まれるまでの流れが他人事のように見えたそのとき、
「いま、怒りが生じたのは指やシンクや痛みのせいではない。私の脳の回路が勝手に反応して怒りを作り出したのだ」
ということに思い至った。

それ以来私は、以前ほど周囲で起こる物事に動じなくなったのではないかと思う。

 

悩みも苦しみも喜びも、結局は自分の感情が作り出すものだ。
感情は外側から問答無用で押し付けられるものではなく、自分の中から生じてくる。そして、自分の中にあるものは、その気になれば自分でコントロールすることができる。

だとしたら、外側で起きることをむやみに恐れたり憂えたりする必要があるだろうか

 

渋滞にはまって3時間足止めを食らおうが、隣席の若者のヘッドフォンから音漏れしていようが、会社の資金繰りが悪化して給料日が半月ずれこもうが、必ずしも不愉快な気分になる必要はない。


問題には都度対処すればよいわけで、自らそこに怒りや不安などのオプションを追加して苦しみを増やすのは馬鹿らしい。

 

現時点では全てに対してそこまで達観できているわけではないのだけれど、この気づきは私を見えない鎖から解き放ってくれた。

外側の世界が敵なのではなく、世界と戦おうとする自分の心が敵なのだと知ることで、人はずいぶん自由に近づけるのではないかと思う。

 

 

3.99Kmの瞑想

ちょっと思うところがあって、ここ3週間ほど帰宅後に一時間ほど歩いている。
息子たちがいれば一緒に歩き、誰もいなければ一人もくもくと歩く。

息子ととりとめもないおしゃべりをしながら歩くのも楽しいが、一人ならひとりで、ゆっくり歩く瞑想に取り組むチャンスになる。速足で一時間歩くのは四十路の体にはそれなりにキツいが、その時々にあわせてその時々なりの楽しみがある。

 

今日は次男が留守だったので、中学2年生の三男と二人で歩いた。
背中に唯我独尊の次男とは違い、三男は見た目も中身もお地蔵さんのようなおっとりした人で、私が語る脳や遺伝子や進化の話などにも割と関心を示してくれる。

 

並んで歩きながら、ふと思いついて、
「ねぇ、歩く瞑想のやり方を教えてあげようか」
と水を向けてみた。私は人に物を教えることにうしろめたさを感じるタイプだが、相手がわが子ならまぁいいのではないかな、と思う。

「歩く瞑想?」
「うん。瞑想にも色々あって、じっと座ってやるだけじゃなく、歩きながらやるタイプがある」
「面白そう、教えてー」
と、丸い目に好奇心を浮かべた三男に、歩く瞑想の基本的なやり方を説明する。
左足を上げる、運ぶ、下す、右足を上げる、運ぶ、下す…というのを観察しながら歩き、意識が足から離れたら、「離れた」と気づいてもう一度足に戻る。

「…それをひたすら続けながら歩くだけ。簡単でしょう?」
「うん、やってみるわ」

と口をつぐんで歩き出した彼に並んで、しばし二人でもくもくと歩く。

 

「…やってる?」
「うん、やってる。でも、これってなんの役に立つの?」
「そうだねぇ…」

と一瞬言葉を切って、瞑想の効果を彼にどう伝えるべきかを考える。
まだ若いこの人にイキナリ無常だ、無我だといういう話をしてもおそらくあまりアピールしないだろうし、上手く伝えられる自信もない。

「色々あるけど、さしあたってはセルフコントロールがうまくなると思う。
あなたは優しくて正直ないい子だけど、心が敏感で人の言動に傷つきやすいでしょう。地道に瞑想を続けると、人から何か言われて怒ったり、落ち込んだり、泣いたりするということが、徐々に減っていくんじゃないかな」
「へぇー、そうなの?なんで?」
「正確な理論はわかんないけど、手足の動きを観察すると、脳の帯状回というところに作用するみたい。帯状回は自己抑制に関係が深いと言われているから、足の動きを観察することで、そこが鍛えられるのかもね」
「おおー、なるほど!」

三男が関心を示してくれるのに気をよくして、瞑想の話を続ける。
「それから、何も考えずに足の動きだけを観察しようと思っても、ふと気が付くと頭は勝手に別の事を考えているでしょう?」

「うん、学校の事とか考えちゃった」
「そうなったら、『おっと、いかんいかん』という感じでまた足に意識を戻す。また気がそれる、また戻す…これを何度も繰り返すのが、自分の意識を自分で制御するトレーニングにもなるんだと思う。
自分の足の動きを観察することで自分を客観的に見る訓練をして、意識を足にひき戻し続けることで、自分の意識をコントロールする訓練をする。この二本立てでやっていくと、怒ったり悩んだりしている自分に気づき、気づいたらそこから気持ちを離す、ということができるようになってくるよ」
「なるほどー。確かに、お母さん、昔みたいにキーキー怒らなくなったもんね(笑)」
「えー、そんなにキーキー言ってたかな(笑)」

 

ひとしきりお喋りしたあと、どちらからともなく口をつぐみ、また並んでもくもくと歩き始めた。

隣から、三男がさくさくと地面を踏む音が、遠く近く聞こえてくる。

左足上げる、運ぶ、下す、音、音、
右足上げる、運ぶ、下す、音、音、音…

わが子と並んで歩く瞑想をする時間を愛しいものだと感じるこの気持ちも、究極的には苦を生むものなのだろう。意識の表面にふと浮かびあがったそんな思いを他人事のように眺めながら、私もさくさくと地面を鳴らしながら歩き続けた。

 

ゆでたまご

朝食にはゆで卵を食べることが多い。
卵はどちらかといえば固ゆでが好みで、水から入れて強火で15分ほどゆで上げる。


その日も卵と水を鍋に入れて強火にかけ、タイマーを15分にセットしてスタートボタンを押そうとしたところで、
「そういえば、なぜ私は強火で15分ゆでると固ゆでになることを知っているんだろうか?」
とふと思った。


知っていた理由は、おそらく以前何かで読んだか、人から聞いたかしたからだ。それで実際に15分茹でてみて固ゆでになることを確認し、以後はゆで時間に悩むことなく、タイマーに15とセットし続けている。

 

これは、真理と知識と瞑想の関係にちょっと似ているのかもしれない…と、いい具合に茹で上がった卵を食べながらふと思った。


15分茹でると卵が固ゆでになることを、私のように知識として外から仕入れて知る人もいれば、何度か実際に卵をゆでてみてちょうどよいゆで時間を発見する人もいるだろう。

どちらの方法で理解しようとも、卵はちゃんと固ゆでに茹で上がる。


本を読んで学ぶよりも身を以て学ぶ方が、鮮烈な体験になるという事は確かにある。そして、体験が鮮烈であればあるほど、既存の思考パターンを書き換える力が強いのは確かなことだと思う。

けれど、卵の茹で時間を知るために必ずしも何度もの失敗を経て体験から学ぶ必要はおそらくないだろう。先人の知恵が既にそこにあるなら、それを活用した方が効率が良いこともある。


私は本も読むし瞑想もする。

本から何かに気づくこともあれば、瞑想中に何かを発見することもあるし、外から仕入れたいくつかの知識が素材となって脳内発酵し、瞑想モードの時にいわゆる「智慧」として現れることもあるかもしれない。


どんなルートであらわれようと、その気づきが生きることを楽にしてくれるのであればそれでいい。

今のところは、とりあえずそんな風に考えている。



「抜苦与楽」

一年ほど前のことになるが、タイで修行をしておられるプラユキさんという僧侶の方にお目にかかったことがある。

 

私はヴィパッサナーを書籍で学び、初心者瞑想指導の会というのに一度だけ出席した後は、基本的に一人で瞑想修行を続けてきた。瞑想会や合宿のような場に出てみたいという気持ちはあるのだが、色々あって足を運ぶのがなかなか難しい。

まず、最寄りでそうした会が開かれている場所が、私の家から意外に遠い。
加えて、平日日中にフルタイムで働いた上に夜と土日は執筆にあけくれ、土日は息子の硬式野球チームの手伝いをするという生活で、自由な時間はあまりない。

結果、片道何時間もかけて瞑想会に参加するより、その時間を自宅での瞑想に費やした方が合理的ではなかろうか…というところに落ち着いてしまうのだ。

 

そういうわけでプラユキさんは、今のところ、私が対面で瞑想について真面目に会話させて頂いた唯一の方だといえる。

プラユキさんとお会いした際の話は過去のブログ記事に書いているが、その際にプラユキさんが何度も口にされていた「抜苦与楽(ばっくよらく)」という言葉が、最近になって頻繁に頭に浮かぶようになった。

 

当時の私はヴィパッサナー瞑想を、なんというか、「ものすごくストイックな修行の道」のように捉えていたのではないかと思う。そして、そういう「ストイックな瞑想」に取り組む自分を密かに誇らしく思うような、慢心に似た気持ちがどこかにあった。

だから、「瞑想は幸せになるためにやるのだから、あなたが幸せになっているならそれでオッケー。その上で人に幸せを与えてあげられればベストですよね」というプラユキさんのふんわり暖かい言葉を素敵だなと感じる一方で、
「でも、私が目指したいのはそういうことなんだろうか…?」
とでもいう、もやもやとした違和感を感じていたのではないかと思う。

 

あれから一年、自分の成長を自分自身で推し量ることはできないが、私の苦しみは確実に減った。かつて常時強火で燃え盛っていた怒りの炎はトロ火くらいに鎮火されていたが、加えて「自分を守ろう」という気持ちが薄れた結果、以前とは比べ物にならないほど楽に生きられるようになった。

そういう中で、プラユキさんが語ってくれた「抜苦与楽」という四文字の言葉が、以前とは違ったニュアンスをもって私の中に息づき始めているのかもしれない。

 

私がヴィパッサナーに取り組み始めたのは、身も心も焼き尽くすような激しい怒りと憎しみをなんとかしたいと願ったからだ。そして実際に苦しみが減ったので、今もヴィパッサナーを続けている。

 今進んでいる方向は、間違っていないだろうと思う。そして、この道を進み続けた遥か彼方に解脱の境地があることを、私は知識として知っている。
けれど、未だ体験したことのない幻の解脱を目指し、全てを投げうって一路修行に励もうという境地には、今の私は至っていない。

 

私には年老いた両親と未成年の3人の息子がいて、彼らを捨てて修行一筋に生きるということは到底考えられない。先の事は解らないが、当面は今のまま普通に生活し、生活の中でできる限りの瞑想修行を続けていくのだろう。

 

自ら選び取って作り上げてきた環境の中で、可能な限り苦しみを抜き、自他に楽を与えられるように生きる。そういう「修行」の形があってもよいのではないかと、今はそんな風に考えている。

 

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「良し悪し」という概念

私が初めてヴィパッサナーを知ったのは2011年頃の事なので、なんだかんだで6年近くヴィパッサナーに関わってきたことになる。

 
といっても、初めの数年はそれほど真剣に取り組んでいたわけではない。
当初の「瞑想」は「ラベリングをしていればとりあえず頭の中から思考を排除できて楽」という程度のごくゆるいもので、真剣に取り組み始めたのはここ2〜3年のことだと思う。
 
真剣に取り組もうと思い始めてからも、初めのうちは集中力を保つのが難しかった。
というより、今にして思えば瞑想の本質を取り違えていたのではないかと思う。その頃の私にとって瞑想とは、「観察という名の思考」になっていたような気がするからだ。
 
瞑想中に「気づき」という名の興味深い思考ができた日は「今日は瞑想がうまくいった」と思い、大した気づきが得られなかった日は「今日の瞑想はダメだった」と、そういう自己評価を無意識のうちに下していた。
 
 
ヴィパッサナーで何より大切なのは(と大威張りで語れるほど私はヴィパッサナーに詳しいわけではないのだが…)、まずはとにかく「考えない」ということなのではないかと思う。
何年も回り道をした挙句にようやく「考えないでいるとはどういうことか」の糸口を体感的に把握できたたいま、以前の自分の瞑想を振り返ってそんな風に感じている。
 
良し悪しというのは、つまるところ自分の中にある一種の概念だ。
だから、自分の瞑想に自分で良し悪しの評価をつけられている時点で、そもそもそれは瞑想の本質を外れている。
 
 
ヴィパッサナーは腹筋運動のようなもので、正しいやり方で黙ってやり続ければ、そのうち然るべき変化が現れてくるものだと思う。
腹筋を割るために必ずしも「腹筋が割れるメカニズム」を理解する必要がないのと同じで、瞑想がどのように進み、どのようなプロセスを辿って自分が変化していくのかという理論をあらかじめ把握しておく必要は特にないはずだ。
やるべきこととやってはいけないことだけを頭に叩き込んだら、あとは実践するだけでいい。
 
世の中には「理論的に納得してからでないと前に進めない」というタイプの人がいて(私もそうだ)、そういう人にとっては事前にある程度メカニズムを理解しておくのも有効なのかもしれないが、そうでない人にとっては、むしろ先入観は邪魔になることもあるような気がする。
 
優れた瞑想指導者が、瞑想の進み方を事細かく教えることなく「とりあえずやってみなさい」というのは、要するにそういうことなのではないかと思う。