瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

変化と共に居る

今日は年に一度の健康診断を受けてきた。
私はたいして健康に気を使っていない割に、自分でもやんなっちゃうくらい病気をしない。
生まれつき脳の真ん中に嚢胞があるのを除けばこれといって大病を患ったことがないし、健康診断でも再検査の指示が出たことはない。

今年もたいして変わり映えはしないだろうと思っていたのだけれど、一つだけ、生まれて初めて視力が1.0を切ったのには一抹の寂しさを感じた。まぁ、46まで裸眼で1.0をキープ出来たのだから、良しとすべきなのだろう。無常である。


私たちは生まれた瞬間から死へ向かって走り続けているのだけれど、普通に生きているとそういうことはあまり意識しない。
40を過ぎた辺りから少しずつ「人生の残り時間」を考えるようになるが、それでもどこかで、自分だけは老いて死んだりしないのではないかという幻想を抱いている。


そういえば先日読んだ仏教書に、ちょっと面白いことが書いてあった。
「サティ(気づき)を保つ」ということは、片時も休むことなく変化し続ける物質と心の流れについていくということである。
…おおまかにまとめると、そんな感じになると思う。
そういう風に考えたことはなかったので、なるほど、言われてみればそうだな、と目から鱗が落ちた。

今ここに意識を置く、というのはヴィパッサナーの基本だけれど、これまではそれを「心を一つのところに落ち着けてじっと見る」というようなイメージで捉えていた。
でも、現実にはあらゆるものが猛スピードで生滅を繰り返して変化し続けているわけで、それをつぶさに観ようと思ったら流れと共に居るしかない。
悩みや苦しみがストレスを生むのは、多分流れに逆行するからなのだろう。流れるプールを逆向きに泳げば、普通に泳ぐよりずっと疲れるのは道理である。


こういった、ちょっとした視点の違いで物の見方がガラッと変わるというのが、私はとても好きだ。
それでさっきから、バスの窓の外を飛ぶように去っていく景色を眺めつつ、それよりもずっと早い速度で変わり続ける心の流れに意識のピントを合わせている。

そのイメージには、激流の中に放り出された小さな筏のような心細さがある、とぼんやり考えている。


ヴィパッサナーと慈悲の心

このところ「他者の心の流れを観る」ということにチャレンジしている。

「観る」といっても他者の心が実際に読めたりするわけではないため、正確には「想像する」というのが近い。
「視覚が何かを捉え、捉えたことを認識し、認識したものを判断し、そこから何らかの感情が生まれる」…そういう、自分の心に生じる流れと同じことが自分以外の生命にも起きているのだと仮定して他者の姿を眺める、というようなことだ。

 

たとえば、会議中にAさんとBさんの意見が合わずに口論が始まる。
Aさんがなにか言いかけたのを畳みかけるようにしてBさんが反論をし、それをまたねじ伏せるようにしてAさんが言い返す。

その様子を眺めながら、
「今、Bさんの声が耳に触れた。触れた声を言葉として認識した。認識した言葉が解釈された。記憶の回路がその言葉を自分への攻撃とみなし、反撃の意思が生まれた」
…というように、Aさんの心の流れを想像してみるのである。

 

面白いことに、これを何度も繰り返していると、他人に対する怒りの気持ちが生まれにくくなってくる。

ヴィパッサナーを続けていると、「自分」というのはそれまで思っていたような確かな存在ではないことが感覚として分かってくるのだけれど、同じプロセスを他者にも適用することで、自分も他人も同じなのだということが理屈抜きで腑に落ちるのかもしれない。

 

「私」も「あなた」も「あの人」も、その時々の状態から機械的にはじき出されるアルゴリズムによって半ば強制的に動かされている操り人形に過ぎない――そういう風に見え方が変わると、他者に対して怒るのが馬鹿らしくなってくる。

なぜならそれは、パッティングマシーンの前に仁王立ちして飛んでくる球に怒鳴り返すようなことでもあるからだ。

 

誰もが得体のしれない「自分」から、問答無用で押し付けられる感情に翻弄されて生きている…そう考えると、同じワンマン上司の下で苦労する同僚を見るような共感を伴った慈悲の気持ちが生まれてくるのは興味深いことだ。

それは、かつての私が慈悲の瞑想のフレーズを唱えて半ば無理やり自分に植え付けていた、かりそめの慈悲の気持ちとは根本的に性質が異なるものだ。
そこには一般に「愛」という言葉で表されるような優しさや温かさはない。
「やれやれ、困ったことですなぁ」
と苦笑いしながら並んで茶を啜るご隠居の淡い友情のような、どこか枯れた感情として、今の私には映っている。 

 

 

因果を観る

私は根っからの仕事人間で、暇でブラブラしているよりは仕事をしていた方が気分がいい。

しかし、それでもしばしばなんとなく仕事をしたくないな、と感じることがある。
 
考えてみれば昼間フルタイムで働いた上に夜も週末も物書きをしているわけで、疲れが溜まっても不思議ではない。年も年だし、気力みなぎる若き日と同じようにはいかないだろうとも思う。
しかし、そういう時に自分を冷静に観察すると、身体は大して疲れているわけではないようなのだ。しかも、冒頭にも書いたように、私はどちらかといえば働くことが好きである。
なのに、なぜこのような怠け心が生じるのだろう…そのことを長い間不思議に思っていた。
 
最近になって、その原因がおぼろげに見えてきた。
たとえば、2日後に締め切りを控えた原稿があり、そろそろ手をつけないとまずいなとわかっているのに、どうしても自分が机の前に座りたがらない。そういうときの感情の流れを眺めていたら、「ネタが出なくて苦しむのが嫌だ」「このテーマは苦手だな」「編集者さんからダメ出しをくらったらどうしよう」といった不安感がチラチラとみえてきたのである。
そういうことが何度かあって、ある日ふと、
「なるほど、私は『怠けたい』のではなく、挫折感を味わうのが嫌だから逃げているのだな」
と不思議な納得感がおりてきた。
 
それ以来、わけもなくウダウダと怠けてしまうことは格段に減ったと思う。原因さえ明確にわかってしまえば、なにかしら対処のしようはあるからだ。
 
 
以前、どなたかが書かれた本の中で、「しつこい頭痛の原因が親族への強い怒りだったことがヴィパッサナーで観えて、観えた瞬間、嘘のように頭痛が消えた」というような話を読んだことがある。
へぇ、そんなことがあるのか…と何度か試してみたのだけれど、どう頑張ってもそういう現象は私には起こらなかった。
こういうのも向き不向きがあるのだろうか…と漠然と考えていたのだけれど、どうやらアプローチの仕方が違っていたようだ。
 
起きてしまった現象だけを凝視しても、多くの場合、そこから本当の原因を逆算するのは難しい。なぜなら、逆算のロジックには自我の妄想が潜り込んでしまうから。
観るべきは現象そのものではなく、その現象を生み出す因果の流れなのだろう。「私」の願望や妄想などにはお構いなく流れ続ける現象の中に、真理に続く糸口がある。
 
怒りや不安や怠けといった感情そのものをどれだけ目を凝らして見つめても、おそらくそれ以上のものはみえてこないのだ。怒りは怒りであり、不安は不安であり、怠けは単なる怠けでしかない。
けれど、現象に囚われることなく生じては消えていく流れをしつこく俯瞰し続けていると、そこにパターンが浮かび上がってくる。
そのパターンにこそ、探し続けていた真実が隠れている。
 
 
最近の脳研究によれば、いわゆる「ひらめき」はある日突然突然神がかりのように生まれるのではなく、入力された情報が脳内で幾度もシミュレーションされた結果として生じるものであるらしい。
意識はシミュレーションの過程を感知することができず、無意識から絶え間なく手渡される回答候補の中からその時々に都合のいいものだけを摘まみ取っているにすぎないという。
 
日頃の生活をヴィパッサナーモードで送っていると、自分でも気がつかないうちに脳がそういう因果の流れを観察し続け、そこから勝手にパターンを抽出するのだろう。
そして、抽出されたパターンが意識に手渡された時、人は「なるほど、そういうことか」と気づく。
 
「智慧が熟する」というのは、きっとそのようなことなのだろう。
ヴィパッサナーにおいて、何も考えずにただ現象をあるがまま見続けよといわれる所以は、そういうところにもあるのかもしれない。
 
 
 

凪いだ心

つい最近、私の身辺にとんでもない出来事が勃発した。
このような場で嬉々として語るような話ではないため詳細は伏せるが、これがドラマなら私の立場にあるキャストは泣きわめき、自分の境遇を呪い、世をはかなんで出家でも考えかねないようなゴツいやつだ。

5年前の私だったら、心身をやられて神経外科の門をくぐっていたかもしれない。

 

ところが、今現在の私は、自分でもびっくりするほど心が凪いでいる。

厳密にいえば不安や悲しみなどの不快な感情がまったく生じないわけではないのだけれど、そうした感情は生じたそばからほろほろと消えていってしまう。


その様子を観察すると、起きているのはどうやらこういうことだ。

まず、何か不愉快な感情が姿を現した時に、割と早めにそれに気づくことができるようになった。くわえて、気づく事によって感情のループに取り込まれることなく、それを一歩外側から眺められるようになった。


そして、たぶんこれが一番大きいと思うのだけれど、そういう感情は「私」が自分で生み出しているのではなく、脳の回路が半ば勝手に生成しているのだ、という風に考えられるようになったことで、その感情に執着する気持ちが薄くなった。

「私が苦しんでいるのだから苦しいに決まっている」

という感覚が弱まり、

「押し付けられた感情に翻弄されるのは馬鹿らしい」

と思えるようになった。


また、生まれた感情は放っておけば必ずいずれ消えて無くなるということを体験を通して理解できたことで、仮に感情に流されかけても「そのうち消える」と自分を落ち着かせて、その状態を冷静に見ていられるようになった。

いまここで私が悩もうが苦しもうが、起こることは起こるし起こらないことは起らない。ならば、既に過ぎてしまった過去やまだ訪れてもいない未来に心を飛ばして悩み苦しむのは馬鹿らしい。


問題が起きたらどう対処すべきかをフラットな気持ちで考え、その都度やるべきことをやる。

その際、自分を守ろうと思うと苦しみが増えることも分かったので、第三者的な視点で事態を見て「この状況で誰もが取るであろう最良の方法は何か」と考えるように心がける。

起きたことは好ましくないことでも、それに対して自分は冷静にやるべきことをやっているのだという自己イメージは、更なる苦しみの発生を押しとどめてくれる。


外から見てどんなに惨めで辛そうな状況下にあっても、心さえ凪いでいれば人は決して不幸ではない。そのことを改めて実感している。


これを書いたのは、苦しい状況にある自分を鼓舞するための強がりからでも、そのような境地に達したことをひけらかしたいからでもない。

ほんの数年前の私は、四六時中怒りと不安に心を焼かれていつも苦しい思いをしていたのだけれど、そんな私でも、地道にヴィパッサナーに取り組んできて、こういう境地にたどり着けた。

だから、今、色々なことで苦しみながら壁を超えられずにいる人たちも、「苦しみは必ず消せる」と信じて進んで欲しい、そんなようなことを誰にともなく伝えたかったからだ。

 

私は本来、修業半ばにある分際で人に物を教えることには抵抗を覚える方だ。

でも、たとえ誰から非難されようともこれだけは書いておきたい、これを書かなければこんな日記を書いている意味はないのではないか…そんな風に思いながら、いま、これをしたためている。



呼吸の中の輪廻

ヴィパッサナーの座る瞑想では、第一に呼吸を観察する。
観察の仕方にはいくつか流儀があるようだが、私がやっている方法では、呼吸によって膨らんだりへこんだりする腹部が最初の観察対象になる。

腹部は息を吸うと膨らみ、息を吐くとへこむ。その動きを、「膨らんでいる、へこんでいる…」と心の目で見る(感じる)。

 

始めのうちは膨らんだりへこんだりという動きだけを観察するので、たいして面白くはない。そこを、
「これも修行ぢゃ…」
と我慢して続けていると、だんだんと「動き」以外のものが心の目(意識)に入ってくるようになる。

瞑想が進むプロセスは人それぞれだろうから、これはあくまでも私の場合の話だが、動きの次は動きに連れて伸びたり縮んだりする腹部の皮膚の感覚、その次はそうした感覚が引き起こす心の変化が意識にのぼるようになった。

 

ここ数日は、そういう心の変化が何をきっかけにして起こり、どうやって消えていき、消えたあとにどうなるか…というのをもっぱら観察しつづけていたのだが、今日は心の変化自体ではなく私に呼吸をさせる「意思」のようなものが意識にのぼってきたので、それをずっと眺めていた。

 

腹部を膨らませる――つまり息を吸う動作を起こしているのは、「息を吸いたい」という私の意思だ。「息を吸いたい」という意思が生まれると同時に呼吸する動きが開始する。

その意志は息を吸い続けている間持続し、吸い切ったところでフッと消える。消えた瞬間「息苦しい」という感情が生まれ、生まれた苦しみがこんどは「息を吐きたい」という意思を生む。その意思は息を吐ききるまで続き、吐ききったところでまた苦しみが生まれる…

 

それが、ひたすら、延々と繰り返されていく。
止まらないし、止められない。

ある状態は必ず生まれて消えていくが、消えるというのは表現上の方便で、実際は別のものに姿を変えてまた次の状態を起動する。

なるほど、これが輪廻かと、その果てしない繰り返しを感じながら思った。

 

業(カルマ)や輪廻といった言葉はともすればオカルトめいた印象を与えることがあるが、その実態は、中学の理科の授業で習ったエネルギー保存の法則のようなものなのかもしれない。

 

私という系の中でエネルギーは次々に姿を変えながら回り続け、その私も、私を含む環境の中で一つのエネルギーとして回り続ける。

このフラクタルな世界のあらゆるところで、同じような回転が様々な粒度で起こり続け、全人類が苦をトリガとして生きている…そのイメージには、人を絶対的な孤独感から救う力があるような気がする。

 

感覚の分解

私は昔から体が硬く、正式な結跏趺坐というのを組むことができない。
仕方がないので胡座(あぐら)をアレンジしたような座り方で座る瞑想をやっているのだけれど、どこかで血行や神経が圧迫されるのか、一時間くらい座っていると、いわゆる「痺れ」が生じてくる。

初めの頃はそれが嫌だな…と少しうんざりした気持ちになっていたのだけれど、最近はこの痺れが興味深い観察の対象になっている。

いつだったか、痺れが生じ始めたので「痺れている、痺れている」と念じながら足の感覚を観察していて、ふと、痺れというのはまとまった一つの感覚ではなく、「痛みの粒」のような細かい感覚が出たり消えたりすることで生まれているのだな、と気がついた。

うまく言葉にしづらいのだけれど、それまでは波のようにうねりながら切れ間なく続くひとつながりの感覚が痺れだと思っていたのが、そうではなく、瞬時に現れては消える小さな痛みの粒が一定期間中に同じ範囲に固まって生じているのが痺れ、というように見え方が変化した。

意識がそういう粒の集まりのようだということはもう少し前から感じていたけれど(http://okan.hatenablog.com/entry/2016/08/14/233950)、身体の感覚として感じたのは、この時が初めてだったと思う。


痛みの粒の一つを見つけ「痛み」として捉えると、捉えた瞬間にそれは嘘のようになくなってしまう。すぐそばでまた別の痛みの粒がみつかるので、またそれを念じようとするのだけれど、それもつかまえたと思った瞬間に消え失せてしまう。

一つひとつの痛みの粒には特に何の関係もなく勝手に生まれたり消えたりしているようにみえる(感じられる)のだが、それが寄り集まると全体として「痺れ」という流れになる。

そう思って改めて他の感覚を見直すと、痺れではない痛みも同じように細かい粒が出たり消えたりしているし、音なども小さな振動が集まって音という流れになっているようだ。
そして、現れた感覚は、例外なくすべて消えて無くなってしまう。


自分の感覚として観察できているのはここまでだが、そこから想像を膨らませると、この世に存在する物や生命、概念などのあらゆるものも、おなじように現れたり消えたりしているのだろうな…ということに思い至る。
まぁ、これは妄想なのかもしれないけれど…。


ところで、そうやってこまかく分割していくにつれて、痛みや雑音のようないわゆる不愉快な感覚に対する嫌悪感・恐怖が薄まっていくのは面白いことだと思う。
以前、マッキンゼーの問題解決マニュアルみたいな本で、「難しい問題は細分化することで取り組みやすくなる」というようなTipsを読んだ記憶があるのだけれど、人の感覚にも同じTipsが応用できるのかもしれない。


この世を統べる法則は、どんなところにも等しく働いている…そういう風に感じられるのは、異なる領域に共通する事柄を見つけるのが好きな私にとって、なんとなくワクワクすることでもある。





異常感覚とヴィパッサナー

これはわかる人にしか分からないのではないかと思うのだが、私には幼い頃から、「体の感覚が左右均等に起こらないと落ち着かない」という奇妙な性癖があった。

右手で触ったものには左手でも触れたくなるし、右足で踏んだものは左足でも踏まないと気が済まない。ものを食べる時、左側で噛んだら右でも噛まなければ落ち着かないし、右目で見たものは左目でも見たくなってしまう。

それによって生活に支障が出るほどではなかったため放置したまま大人になったが、お医者にかかれば一種の神経症という診断が出るのかもしれない。

この感覚は今でもなくなっていないが、成長とともにうまくやり過ごす術を身につけたので、今は私にそんな癖があることを知らない人も多いと思う。ただ、疲れが溜まったりストレスフルな環境下で何日も過ごしたりすると、湧き上がる衝動を抑えるのが難しくなる傾向は割と最近まであった。

意識してこの衝動を止められるようになったのは、ヴィパッサナーに取り組むようになってからだと思う。
衝動自体はなくなっていないが、それが生まれてくる様子を他人事のように観察し、「左右対称に触りたいと思っている『私』というのも、所詮は脳が生み出す幻のようなものなのだ」と考えられるようになったことで、その衝動に対する執着が薄れたのかもしれない。

それは今でもしばしば起こるけれど、
「ああ、触りたがってるなぁ。でも、別に触らなくても平気だから…」
と「自分」の中の衝動担当者を宥めるような気持ちでそれを眺めている。

※※※

面白いのは、何年か前に三男が、深刻な顔でこれと同じ症状を持っていると打ち明けてきたことだ。へぇー、こういうのも遺伝するんだなと感心し、
「それお母さんも一緒、一緒♪」
と二人で盛り上がって、以来、彼と私はそういう異常感覚の心強い共感者となった。

本屋で本棚の左側から一冊だけ飛び出している本を見ると、
「これはあかんよね〜」
「あー、分かる分かる。両方飛び出すか両方引っ込めるかしないとね〜」
などと言いながらさりげなく本を並べ直し、横断歩道を渡るときには、
「最後の線は両足で均等に踏みたいよね〜」
「あー、それめっちゃ分かるわー」
と、最後のラインの上で並んで足踏みをしたりする。


三男は瞑想にも割と関心を示し、寝る前などにちょっと試してみたりしているそうなので、いずれはこの異常感覚を制御できるようになるだろう。
私は一足お先にそこを卒業しつつあるが、後から来る彼が一人孤独に悩むことのないよう、その日が来るまでさりげなく寄り添っていけたらよいと思っている。