自己主張という屁
連想ゲーム
転換点
ヴィパッサナー実践の進み方は、人それぞれなのだろうと思う。
瞑想と奇跡
冬の朝の憂鬱
冬の朝は寒いので、布団から出るのが億劫になる。
加えて日の出が遅いため、目覚めの頃には太陽が顔を出していない。人間の身体は日光を浴びてセロトニンを合成するそうなので、薄暗い冬の朝に「なんとなくやる気が出ない」という気持ちになるのはやむを得ないことだろうと思う。
ヴィパッサナーを続けていると心は落ち着いてくるけれど、一足飛びに聖人となってあらゆる苦から解放されるわけではモチロンない。だから、寒く暗い冬の朝には、今でも時折なんとなく憂鬱な気持ちで目を開ける。
ただ、自分のどこかから湧き上がってくる感情に流されることは格段に減ってきた。自分の感情などというのはどうせ意のままにはならないものであり、そのようなものに囚われても仕方がない…というある種の諦めが生まれるからだ。
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苦であれば無我である
真髄がないから非我である
自分の意識のままになってこないから非我である
―ミャンマーの瞑想(ウィパッサナー観法)/マハーシ長老著-
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冬の朝の憂鬱も、「そういう気分が生じている」のを客観的に眺められるようにはなってきた。
「また今朝も憂鬱になっておるな…」と感情の流れを他人事のように見て、さて、ではこの憂鬱をどうやり過ごして布団から抜け出すべきかと、とりあえず動き出すためにやるべきことを模索する。
憂鬱だろうがなんだろうが出社時刻は近づいてくるし、起きるのが遅れればその分後に差し支える。無駄な感情はサッサと処理してやるべきことをやった方が、本当はずっと楽なのだ。
どうにも身体が起きたがらない朝は、布団の中で瞑想をする。
たいてい起きる時刻の10分前にアラームをセットしてあるので、初めの5分で慈悲の瞑想を、そのあと寝転がったままで手動瞑想を5分やる。手を動かすと頭も動き出すからか、予定の時間にはそれなりに憂鬱が晴れてくる。
お布団の中でヌクヌク瞑想とはずいぶんズボラな話だが、それで快適に目がさめるなら別にいいではないか、と思っている。
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余談ながら、私の次男は昔から言葉に対するこだわりが薄く、聞きかじった音を何の疑いも抱かずそのまま覚えて使うフシがある。アルプスの少女は長いことカルピスの少女だと思い込んでいたし、彼岸花のことはガビン花と呼んでいた。
そんな彼がある時、父親譲りのオペラ歌手みたいないい声でラジオ体操のテーマソングを歌いながら階段を上ってきたことがあるのだが、その時の歌詞がこうだった。
「新しい朝が来た〜、昨日の朝だァ〜♪」
慈悲の瞑想をしても手動瞑想をしても憂鬱が晴れない朝はこの話を思い出し、
「新しくねぇよ!(笑)」
とひとりツッコミをいれつつ身体を起こすことにしている。
そういう、憂鬱を払うハタキみたいなちょっとしたツールを用意しておくのも、冬の朝には有効かもしれない。
変化と共に居る
ヴィパッサナーと慈悲の心
このところ「他者の心の流れを観る」ということにチャレンジしている。
「観る」といっても他者の心が実際に読めたりするわけではないため、正確には「想像する」というのが近い。
「視覚が何かを捉え、捉えたことを認識し、認識したものを判断し、そこから何らかの感情が生まれる」…そういう、自分の心に生じる流れと同じことが自分以外の生命にも起きているのだと仮定して他者の姿を眺める、というようなことだ。
たとえば、会議中にAさんとBさんの意見が合わずに口論が始まる。
Aさんがなにか言いかけたのを畳みかけるようにしてBさんが反論をし、それをまたねじ伏せるようにしてAさんが言い返す。
その様子を眺めながら、
「今、Bさんの声が耳に触れた。触れた声を言葉として認識した。認識した言葉が解釈された。記憶の回路がその言葉を自分への攻撃とみなし、反撃の意思が生まれた」
…というように、Aさんの心の流れを想像してみるのである。
面白いことに、これを何度も繰り返していると、他人に対する怒りの気持ちが生まれにくくなってくる。
ヴィパッサナーを続けていると、「自分」というのはそれまで思っていたような確かな存在ではないことが感覚として分かってくるのだけれど、同じプロセスを他者にも適用することで、自分も他人も同じなのだということが理屈抜きで腑に落ちるのかもしれない。
「私」も「あなた」も「あの人」も、その時々の状態から機械的にはじき出されるアルゴリズムによって半ば強制的に動かされている操り人形に過ぎない――そういう風に見え方が変わると、他者に対して怒るのが馬鹿らしくなってくる。
なぜならそれは、パッティングマシーンの前に仁王立ちして飛んでくる球に怒鳴り返すようなことでもあるからだ。
誰もが得体のしれない「自分」から、問答無用で押し付けられる感情に翻弄されて生きている…そう考えると、同じワンマン上司の下で苦労する同僚を見るような共感を伴った慈悲の気持ちが生まれてくるのは興味深いことだ。
それは、かつての私が慈悲の瞑想のフレーズを唱えて半ば無理やり自分に植え付けていた、かりそめの慈悲の気持ちとは根本的に性質が異なるものだ。
そこには一般に「愛」という言葉で表されるような優しさや温かさはない。
「やれやれ、困ったことですなぁ」
と苦笑いしながら並んで茶を啜るご隠居の淡い友情のような、どこか枯れた感情として、今の私には映っている。