瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

自己主張という屁

自分の意見を主張するのは、放屁によく似ていると思う。

「我がものと 思えば愛し 屁の臭い」
という川柳もあるように、自分の主張は自分にとって好ましいものだし、言いたいことを言えば思い切り屁を放った直後と同じようにとてもスッキリする。

しかし、主張を聞かされる他人が自分と同じ気持ちを共有してくれるかどうかはわからない。
というか、他人の屁を無理やり嗅がされて喜ぶ人がいないのと同様に、たいていの場合は本人が思うほど喜ばれないのが普通だろう。
稀に麝香猫の性腺のような芳しい屁を放つ人がいて、そういう場合は大勢の人がその屁の臭いに魅せられる事もある。

自分の主張を高々と掲げて「私の言うことを聞け」と人に押し付けるのは、人様の顔の前でおもむろに放屁しておいて、
「どうです、いい匂いでしょう」
と悦に入るようなものだろうし、言いたいことを言い散らした挙句に「嫌なら聞くな」と開き直るのは、エレベーターの中で屁を放っておいて「嫌なら嗅ぐな」というようなことだろう。


誰もが自分の屁を愛おしみ、「ぜひこれを嗅いでください」「この匂いの良さを分かってください」と一生懸命になっている。
そんな風に考えると、主張の違いで人と争うことがなんだか馬鹿らしくなってくる。
無理やり主張を押し付けてくる強引な人も、どこか可愛らしく思えてきたりする。


他人の屁を嗅ぎたがる人などいないし、嗅がせたところで自分と同じように愛おしんでくれる可能性は低い。
それでも人は放屁をせずにはいられないから、極力人に迷惑をかけないように、マナーを守って放屁する。

ブログであれTwitterであれ、自分の主張をぶち上げようとする時、「いま、私は人様の前で放屁しようとしているのだ」と考えるとようにすると、ちょっと謙虚な気持ちで発言できるのかもしれない。

…という、本日の放屁。

連想ゲーム

バスなどを待つ間に手持ち無沙汰な時間ができると、連想ゲームをすることがある。

連想ゲームといっても「りんごは赤い、赤いはポスト」…というあの遊びとは少し違って、ふと意識に上ったものから連なるように出てくる記憶や感情の流れを観察するようなことだ。
普通にしていると、周囲から絶え間なくなんらかの刺激が送られてくる。それらを捉え、そこから数珠繋ぎに生まれてくるものを観る。

この遊びをしていると、人は自分が思っているよりもはるかに沢山のことを記憶しているのだな、と驚かされる。
赤信号を見て小学生時代の登校シーンを思い出したり、煙の匂いを嗅いで、何年も前のバーベキュー大会の時の友人の姿が、服装から表情まで鮮やかに浮かび上がったりする。

浮かび上がった記憶がトリガとなってまた別の記憶が想起され、最終的にはなにがしかの感情が呼び起こされる。
そういう様子をぼんやり眺めていると、その時点における自分の脳の回路図の断片を見せられているような気持ちになる。

同じものを見ても、その時々で浮かび上がるものは違う。そういう刻一刻と書きかわるファジーな地図情報だけを拠り所にして、「私」というシステムが動いている。
だとしたら、自分の信念や主張、感情などに固執することに意味はあるのだろうか。
「私」というものの形を頑なに保とうとする意志は、本当に必要なものなのだろうかーー。

空き時間に出来る他愛ない遊びの中にも、世界の仕組みについて考えるためのちょっとしたヒントが散りばめられている、と思う。

転換点

ヴィパッサナー実践の進み方は、人それぞれなのだろうと思う。

いつ、どんな変化がどのように起こり、どういう経緯を経て心が救われるのか…ある程度の目安はあるのかもしれないが、「必ずこうなる」という定石のようなものはおそらくないのだろう。
他人の心を直接見て比較することができない以上、この想像が正しいかどうかを知る術はない。
 
 
ただ、実践を続ける中で、物の見方がそれまでとは大きく変わってしまうある種の転換点を通過することになるのは、おそらく全ての人に共通することなのではないかと思う。
それが具体的にどのような現象として現れるかは分からないが、その体験を境に世界の見え方がおおきく変わってしまう、そういうことが遅かれ早かれ誰にでも起こる。
そうでなければこのメソッドは、二千年もの時を超えて語り継がれていないだろう。
 
 それは、それまで平面にしか見えなかった3Dアートが、ある瞬間を境に突然立体に見え始めるのにちょっと似ているのかもしれない。天の声が聞こえるとか、めくるめく恍惚感に包まれるとかいった特殊な体験ではなく、ただ、
「ああ、なるほどそういうことか」
という奇妙なまでに深い納得感が湧き上がる。それをきっかけとして、抱いていた価値観がガラッと入れ替わってしまう。
 
価値観が入れ替わったからといって、自分の中の煩悩が瞬時に消え去るわけではなく、怒りや悲しみなどの感情はその後も生まれ続けるのだけれど、生まれた感情に縛られることが減ってくるので、生きるのはずいぶん楽になる。
 
その転換点は、ヴィパッサナーの究極のゴールとされる「悟り」や「解脱」とはまた異なるものなのだろう。けれど、どうにかして激しい怒りを鎮火して苦しみから逃れたいと切望していた私にとって、それがこの上ない救いとなったのは確かなことだ。
 
 私は仏教徒というわけではなく、仏教のいう「悟り」や「解脱」を真剣に目指しているわけではない。
それでも、いま感じている安寧な境地を保ち、この先もずっと心穏やかに生きていくために、これからも自分なりにヴィパッサナー修行を続けていきたいと思っている。
 
 

瞑想と奇跡

いつだったか息子を呼んで折り紙を取り出し、
「お母さんがポンと手を叩いたら、この紙が半分になるよ〜」
と言いながら手を叩き、叩いた後で紙を手で折ってみせたことがある。

ワクワクした顔で見守っていた息子は、
「えー、自分で折るなんて詐欺やん!」
と鼻白んだようにぼやいたが、世にいう「奇跡」はおしなべてそのようなものなのではないかと思う。
因果の流れの頭と尻尾の部分だけを切り取って繋げて見せると、そこに「奇跡」が現れる。

「瞑想をすれば次々にいいことが起こる」という話も、これに似ているような気がする。
ヴィパッサナーの実践が良い効果を生むのは、経験上確かなことだ。でもそれは、「座った途端に嘘のように苦しみが晴れる」という類の怪しい秘術のようなことではなく、日々の実践の繰り返しによって薄紙を重ねるように形を成していく、そういうものなのではないかと思うのだ。


多分、奇跡を見たいと願えば願うほど、奇跡の発現は遠ざかっていくのだろう。なぜならそれは、タネを仕込む手品師の手元を凝視するようなことだから。

だから、ヴィパッサナーに取り組む時は「いずれ起こる奇跡」のことはとりあえず忘れて、その時々にやるべきことに淡々と励むのがよいのではないかと思う。
そうすると、忘れた頃に「あれっ」という感じで求めていた奇跡が姿をあらわす。

その頃にはかつて自分が奇跡を切望したことすら忘れている可能性もあるが、だとしたら、それこそが一番尊い「奇跡」だと言えるのかもしれない。

冬の朝の憂鬱

冬の朝は寒いので、布団から出るのが億劫になる。
加えて日の出が遅いため、目覚めの頃には太陽が顔を出していない。人間の身体は日光を浴びてセロトニンを合成するそうなので、薄暗い冬の朝に「なんとなくやる気が出ない」という気持ちになるのはやむを得ないことだろうと思う。

 

ヴィパッサナーを続けていると心は落ち着いてくるけれど、一足飛びに聖人となってあらゆる苦から解放されるわけではモチロンない。だから、寒く暗い冬の朝には、今でも時折なんとなく憂鬱な気持ちで目を開ける。

ただ、自分のどこかから湧き上がってくる感情に流されることは格段に減ってきた。自分の感情などというのはどうせ意のままにはならないものであり、そのようなものに囚われても仕方がない…というある種の諦めが生まれるからだ。

 

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苦であれば無我である

真髄がないから非我である

自分の意識のままになってこないから非我である

ミャンマーの瞑想(ウィパッサナー観法)/マハーシ長老著-

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冬の朝の憂鬱も、「そういう気分が生じている」のを客観的に眺められるようにはなってきた。

「また今朝も憂鬱になっておるな…」と感情の流れを他人事のように見て、さて、ではこの憂鬱をどうやり過ごして布団から抜け出すべきかと、とりあえず動き出すためにやるべきことを模索する。

憂鬱だろうがなんだろうが出社時刻は近づいてくるし、起きるのが遅れればその分後に差し支える。無駄な感情はサッサと処理してやるべきことをやった方が、本当はずっと楽なのだ。

 

どうにも身体が起きたがらない朝は、布団の中で瞑想をする。

たいてい起きる時刻の10分前にアラームをセットしてあるので、初めの5分で慈悲の瞑想を、そのあと寝転がったままで手動瞑想を5分やる。手を動かすと頭も動き出すからか、予定の時間にはそれなりに憂鬱が晴れてくる。

お布団の中でヌクヌク瞑想とはずいぶんズボラな話だが、それで快適に目がさめるなら別にいいではないか、と思っている。

 

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余談ながら、私の次男は昔から言葉に対するこだわりが薄く、聞きかじった音を何の疑いも抱かずそのまま覚えて使うフシがある。アルプスの少女は長いことカルピスの少女だと思い込んでいたし、彼岸花のことはガビン花と呼んでいた。

そんな彼がある時、父親譲りのオペラ歌手みたいないい声でラジオ体操のテーマソングを歌いながら階段を上ってきたことがあるのだが、その時の歌詞がこうだった。

 

「新しい朝が来た〜、昨日の朝だァ〜♪」

 

慈悲の瞑想をしても手動瞑想をしても憂鬱が晴れない朝はこの話を思い出し、

「新しくねぇよ!(笑)」

とひとりツッコミをいれつつ身体を起こすことにしている。

そういう、憂鬱を払うハタキみたいなちょっとしたツールを用意しておくのも、冬の朝には有効かもしれない。

 

変化と共に居る

今日は年に一度の健康診断を受けてきた。
私はたいして健康に気を使っていない割に、自分でもやんなっちゃうくらい病気をしない。
生まれつき脳の真ん中に嚢胞があるのを除けばこれといって大病を患ったことがないし、健康診断でも再検査の指示が出たことはない。

今年もたいして変わり映えはしないだろうと思っていたのだけれど、一つだけ、生まれて初めて視力が1.0を切ったのには一抹の寂しさを感じた。まぁ、46まで裸眼で1.0をキープ出来たのだから、良しとすべきなのだろう。無常である。


私たちは生まれた瞬間から死へ向かって走り続けているのだけれど、普通に生きているとそういうことはあまり意識しない。
40を過ぎた辺りから少しずつ「人生の残り時間」を考えるようになるが、それでもどこかで、自分だけは老いて死んだりしないのではないかという幻想を抱いている。


そういえば先日読んだ仏教書に、ちょっと面白いことが書いてあった。
「サティ(気づき)を保つ」ということは、片時も休むことなく変化し続ける物質と心の流れについていくということである。
…おおまかにまとめると、そんな感じになると思う。
そういう風に考えたことはなかったので、なるほど、言われてみればそうだな、と目から鱗が落ちた。

今ここに意識を置く、というのはヴィパッサナーの基本だけれど、これまではそれを「心を一つのところに落ち着けてじっと見る」というようなイメージで捉えていた。
でも、現実にはあらゆるものが猛スピードで生滅を繰り返して変化し続けているわけで、それをつぶさに観ようと思ったら流れと共に居るしかない。
悩みや苦しみがストレスを生むのは、多分流れに逆行するからなのだろう。流れるプールを逆向きに泳げば、普通に泳ぐよりずっと疲れるのは道理である。


こういった、ちょっとした視点の違いで物の見方がガラッと変わるというのが、私はとても好きだ。
それでさっきから、バスの窓の外を飛ぶように去っていく景色を眺めつつ、それよりもずっと早い速度で変わり続ける心の流れに意識のピントを合わせている。

そのイメージには、激流の中に放り出された小さな筏のような心細さがある、とぼんやり考えている。


ヴィパッサナーと慈悲の心

このところ「他者の心の流れを観る」ということにチャレンジしている。

「観る」といっても他者の心が実際に読めたりするわけではないため、正確には「想像する」というのが近い。
「視覚が何かを捉え、捉えたことを認識し、認識したものを判断し、そこから何らかの感情が生まれる」…そういう、自分の心に生じる流れと同じことが自分以外の生命にも起きているのだと仮定して他者の姿を眺める、というようなことだ。

 

たとえば、会議中にAさんとBさんの意見が合わずに口論が始まる。
Aさんがなにか言いかけたのを畳みかけるようにしてBさんが反論をし、それをまたねじ伏せるようにしてAさんが言い返す。

その様子を眺めながら、
「今、Bさんの声が耳に触れた。触れた声を言葉として認識した。認識した言葉が解釈された。記憶の回路がその言葉を自分への攻撃とみなし、反撃の意思が生まれた」
…というように、Aさんの心の流れを想像してみるのである。

 

面白いことに、これを何度も繰り返していると、他人に対する怒りの気持ちが生まれにくくなってくる。

ヴィパッサナーを続けていると、「自分」というのはそれまで思っていたような確かな存在ではないことが感覚として分かってくるのだけれど、同じプロセスを他者にも適用することで、自分も他人も同じなのだということが理屈抜きで腑に落ちるのかもしれない。

 

「私」も「あなた」も「あの人」も、その時々の状態から機械的にはじき出されるアルゴリズムによって半ば強制的に動かされている操り人形に過ぎない――そういう風に見え方が変わると、他者に対して怒るのが馬鹿らしくなってくる。

なぜならそれは、パッティングマシーンの前に仁王立ちして飛んでくる球に怒鳴り返すようなことでもあるからだ。

 

誰もが得体のしれない「自分」から、問答無用で押し付けられる感情に翻弄されて生きている…そう考えると、同じワンマン上司の下で苦労する同僚を見るような共感を伴った慈悲の気持ちが生まれてくるのは興味深いことだ。

それは、かつての私が慈悲の瞑想のフレーズを唱えて半ば無理やり自分に植え付けていた、かりそめの慈悲の気持ちとは根本的に性質が異なるものだ。
そこには一般に「愛」という言葉で表されるような優しさや温かさはない。
「やれやれ、困ったことですなぁ」
と苦笑いしながら並んで茶を啜るご隠居の淡い友情のような、どこか枯れた感情として、今の私には映っている。