瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年2月26日 「思考」という邪魔者

朝の瞑想。

目覚めて5分ほど布団の中で微睡タイムを過ごした後、起きて歯を磨き、顔を洗って、坐る瞑想をする。今日は息子の大学入学関係の用事でお休みを取ったので、少しゆっくり。 

 

集中するために初めは呼吸の観察から入り、体に起こる感覚や心に湧き上がってくるものなどを観る。
体の感覚は、痒いとか痛いとか痺れるとか、そういうものは分かりやすい。でも、ゴエンカ氏の本にあるように頭のてっぺんからつま先まで順に感覚を観ていく、というのは、私はあまり得意ではない。ずいぶん前にリラックス法というやつを紹介されて、それがやっぱり「つま先から頭のてっぺんまで順番に暖かくなっていくのをイメージする」というようなやり方だったのだけれど、それもあまりうまくできなかった。

目を閉じてしまうと、自分の体がどこにどういうふうにあるのかを感じることが難しい。みんなそうなのかな?

 

心の方は、比較的分かりやすいと思う。
集中がうまくできていない時は、心から湧き上がってくる「意識の断片」に引きずられて、ふと気が付くと何か全然別のことを考えていたりする。昨日の仕事のこととか、子供のこととか、Facebookで読んだ友達の近況とか。
それに気づくたびに「考えている」と気づいて、もう一度呼吸の観察に戻る。

何回かそれを繰り返して集中できてくると、「意識の断片」が猛スピードのスライドショーみたいに現れたり消えたりするのがぼんやりと分かってくる。「意識の断片」を送り出しているのは、私の中のユニットA。その中から、その時の状況によって強い印象を受けたものがユニットBに渡され、Bがそれを燃料として思考を回転させ始める。

・・・そういった流れがなんとなく見えてくるので、AからBにそれが手渡されるあたりで「考えている」と気づいて止める。すぐに止められることも、なかなか止まらないこともある。

 

 思考・物を考えることは、一般には人間にしかできない尊い行為だと考えられていると思うけれど、ヴィパッサナーではいわゆる思考は「邪魔物」である。人によっては「思考はゴミ」とまでいうこともある。

瞑想が妄想になってしまわないように、勝手に湧き上がり押し付けられる「思考」をうまく止められるようになること。それが、ヴィパッサナーの最初の難関といえるかもしれない。