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瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年3月3日 自我の分離

毎朝、交通機関を降りて会社までの道のりを歩きながら、歩く瞑想をする。

歩く瞑想では、右足と左足を上げたり前へ出したりおろしたりするのを、歩きながらひたすら観察する。座る瞑想の時のように心に浮かぶものなどは念じず、足の動きだけを観る。気持ちがそれたらその都度戻して、ただ右足、左足、と観察する。

歩く瞑想、立つ瞑想、座る瞑想、動きながらの瞑想、それぞれに少しずつ役割が違うのだろうか。
瞑想についてちゃんと研究しているわけではないので、あまり詳しいことはわからない。わからないが、知識として知ることより実践する方が、おそらく大切なのだと思う。


歩く瞑想をしていると、動いている「私」とそれを観ている「私」とがいることを、他の瞑想よりもくっきりと感じる。

足はだいたい勝手に動く。
観ている「私」が動かしているわけでは多分ない。なぜなら、観ている私は足が動いた後でちょっと遅れて「右足、左足」と念じているのだから。

はじめて無我という言葉の本当の意味を知った時、それが意味することが理解できなかった。
「我、などというものは存在しない」と言われても、実際私はここにいるじゃないか、と首を傾げていた。

いまはそれが少しわかるようになった。
私、というのはおそらく概念なのだ。花とか動物とか日本とかいうものと同じで、それが表す何かは「ある」かもしれないが、実体を探しても見つからない。

目、鼻、口、あるいはそれらを構成する細胞、次々に生まれては消える無数の意識のプロセス、そういったバラバラのパーツが寄り集まって、「私」という一つの連合体を構成している。
連合体としての「私」はそこにいるけれど、実体としての私は存在しない。
それは、日本という国は確かに存在しても、その実体がどこにあるのかという問いに誰も答えられない、というのと似たようなことかもしれない。


だとすると、無我の境地に至る道とは自我を「消す」ことでは多分なく、自分の中で癒着している複数の自我を分離することだ。

「動いている私」と「観ている私」の実質的な分離を実感し、「私」とは複数のプロセスの連合体であったのだな、と得心する。

おそらくそこを起点として、「一つに統合された永久不滅の自分」が幻だという理解に至るのではないかと思う。