瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年4月11日 「不快」の観察

立つ瞑想。

今日はとても冷たい風が吹いていた。
普通にしていると寒さに対する嫌悪感に流されて心に怒りが生まれてくるので、バス停でバスを待ちながら感覚を観る。

風が吹き付けると顔や頭に「触れた」という感覚が生まれ、続いて「冷たい」「寒い」という感情が出てくる。

この「冷たい」「寒い」という感情は、注意深く見ていると次第に「痛い」「ムズムズする」「不愉快だ」という三つくらいの細かい感覚に分割される。
風が皮膚に触れた直後に痛みがあって、そのすぐあとに尾てい骨のあたりから背筋に沿って首の付け根あたりへ「イライラ」とか「ムズムズ」というような感覚がのぼっていく。それは最終的には、肩甲骨と首の中間あたりにわだかまる。

そういう感覚と並行して、「嫌だ」「不愉快だ」という種類の感情が姿を見せる。

そういうワンセットの流れが、体の至る所で次々に生じる。

この感情をそのままにしておくと、
「あー、寒い寒い寒い、もう嫌、早くバス来ないかな、もう4月だっていうのにいつになったら暖かくなるんだろうか…」

というような、怒りの感情に成長していくので、なるべく早く捕まえてラベルを貼ってしまうのがいい。

分割してしまえばなんということもない感覚の集まりなのに、それらが勝手に流れをなすのを許してしまうと、それは「不快」という正体不明の魔物となって、私の心を苦しめ始める。

寒さ、という不愉快な感覚に足を取られて苦しまない秘訣は、生まれてくる感覚をなるべく上の方で捉えて、早めに「見極めて」しまうことだと思う。


快・不快は環境が作るのではなく、自分の心が生み出すのであり、それはその気になればある程度コントロールできることを体で理解すると、何が何でも不愉快な環境を避けようという怒りや、心地良い環境に対する執着心が薄れてくる。

そしてもう一つ面白いのは、不快な強い感覚は瞑想の良い素材になるな…というおかしな欲が出ることだ。
寒さ、暑さ、狭さといった不愉快な状況に身を置いた時、自分の心がどういう動きをするのだろうかという好奇心が、何が何でも不快を避けようというマイナスの執着心を逆方向に振れさせる。