瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016/04/29 痛みの入り口

座る瞑想。

瞑想を始めた途端に痛みや痒みが生じることがある。
マハーシ長老の書かれた本には、「それらはもともと体の中に潜在していたつまらないもの」と書かれている。普段はもっと別の分かりやすい感覚に気を引かれて気づかないが、瞑想を始めるとそうした「分かりやすい感覚」が遮断され、隠れていたものが表面に現れる。

その程度の痛みや痒みは格好の観察対象なので、あらわれると痛み、痛み、痒み、痒み…と気づきながら観ている。ただ、あまりにも感覚が激しくなってくれば、我慢がきかなくなることもある。

私自身の傾向としては、痛みよりも痒みの方が我慢の限界が訪れるのが速い。
痛みというのは、よほど深刻な怪我や病気に由来するものでない限りはそれほど激しい感覚ではなく、「痛みがあるな」と観察して観ていることができる。

しかし、痒みはなかなか難しい。
痒いな、と思い始めると痒みはどんどん激しくなり、しまいにはもうそれしか考えられないというくらいの感覚になる。

そういう状況に陥ったら、やむを得ないので手を伸ばして痒い所を掻く。
ヴィパッサナーは苦行ではないし、耐え難い痛みや痒みに心を乱されて瞑想がうまくいかないのであれば、それを一旦止めてしまった方がよい。

 

 ところで、瞑想をしていて起こる痛みや痒みといった現象について、以前から疑問に思っていることがある。
我々には「眼門、耳門、鼻門、舌門、身門、意門」の六つの入り口があり、そこから入ってくる情報を認識することで心が動き始めるという。

 

 では、痛みや痒みはどの門から入ってきた情報なのだろう?

「誰かに顔を叩かれて痛い」「蚊に刺されて痒い」という感覚は皮膚(身門)からの情報をトリガーとして生まれるような気がするが、こういった瞑想を開始した途端にいきなり出てくる痛みや痒みは、どのように考えるべきなのか。

 

いや、よく考えると、「誰かに顔を叩かれて痛い」というのも「蚊に刺されて痒い」というのも、身門で捉えるのは「手が触れた」「蚊が塗った毒液により肌の表面が刺激された」という感覚だけだ。その先に繋がる「痛い」とか「痒い」とかいうのは、その触識をトリガーとして脳内で発生した何らかの現象を後付けで意門から受け取っている、理屈からするとそういうことになるのではないか。

 

だとすれば、痛いとか痒いとかいう感覚は、ある程度まで心の力で制御することができるのかもしれない。それはいわゆる「我慢する」ということではなく、意門から入ってきた「痛い」「痒い」という感覚をなるべく上の方で捉え、それに流されないということ。

 

身体の感覚も脳内の動きも、結局最後は意門を通じて心に手渡されていく。
そう考えると人間とは、それぞれに固有のインタフェースをつけたモビルスーツに乗せられて生きているようなものなのかもしれない。