瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年5月28日 重いのは身体ではない

身体が重い、ダルい、と言う表現をしばしば使うけれど、そういう時に重かったりダルかったりするのは、実は身体ではなく意識の方ではないのだろうかと、最近思うようになった。

今日はちょっと疲れたな…という日に身体を観ていると、頭では「身体が重い」と思っているのに、体のどこにも「重い」ところを見つけることができない。
一方で、意識の方からはしきりに「ダルい」「辛い」「眠い」「横たわりたい」というようなシグナルが送られてくる。

そういえば、疲労がたまって身体が辛いような時、5分か10分程度の仮眠をとると劇的にすっきりすることがある。

身体は物質だ。
物質は変化するのに時間がかかる。
辛いのが本当に身体なら、5分程度でそんな劇的に回復したりしないような気もする。

筋肉痛でどこかが痛い、というように実際に身体が辛いことも確かにあるが、意識が勝手に作り出している幻のような「疲れ」「辛さ」というのが、実際は結構あるのかもしれない。


疲れや痛みだけでなく、怒りや悲しみ、喜びなどの感情も、突き詰めていけば自分の心が半ば勝手に作り出しているものだ。
周囲で起こる出来事と、それを受けて自分が抱く感情の間に本来直接の因果関係はないのだが、心を制御できなければ、その時点で紐付けられている感情に半ば自動的に翻弄されるしかない。

外側から情報を受け取る仕事と受け取った情報を処理する仕事は、厳密には別のフェーズに分かれている。

その事が分かると、外側の世界で起こる出来事に必要以上に心を乱されることが減り、生きるのが少しずつ楽になってくるのだと思う。