瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

「かわいそうな私」

何か辛いこと、悲しいこと、悔しいことなどがあって思わず涙がこみ上げる…という経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思う。

 
私の場合、そういう瞬間の心を観察すると、根底に「自己憐憫」が隠れているのがかすかに見える。
 
涙ぐむきっかけとなった出来事が仕事の失敗であれ、家族との行き違いであれ、突然襲ってきた寂しさであれ、ぐっと胸にこみ上げてくるものを捉えてよく観ると、
「私はなんて可哀想なのだろう」
とでもいうような意識が伺えるのである。
 
面白いことに、それに気づいた瞬間こみ上げてきたものはスッとおさまり、涙はどこかへ引っ込んでしまう。
なにしろ、自分を哀れんで涙ぐんでいる自分の姿を目の当たりにするほど恥ずかしいことはなく、どんな感情の昂りも、冷水を浴びせられたかのように一瞬で冷めてしまうのだ。
 
 
感情という見えない檻を開ける鍵は、「その感情には価値がない」と気づくことなのかもしれない。
 
可哀想な私に寄り添って泣いてあげるのが尊いと思っているから、とめどなく涙を流す。
怒ることが自分を守るための崇高な行為だと思っているから、どうでもいいことにも腹をたてる。
 
 
自己憐憫にも怒りにも何の価値もないと気づくこと、そうした感情に対する執着を一つずつ捨てていくことで、私はきっと一歩ずつ自由に近づいていくのだと思う。