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瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

瞑想と姿勢/2016年8月31日 

なにか新しいことを学ぼうとする時、異なる著者が書いた複数の本を並行して読むクセがある。
昔から「複数の異なる領域に共通する事柄は真理に近い」というような感覚が私にはあって、そうしたものに暗に影響されているのかもしれない。

一人の意見にはどうしても某かの偏りが出るが、複数の意見を集めて共通点を抽出していく…オブジェクト指向でいうところの汎化(抽象化)の作業を行っていくと、そのテーマに関する重要な事柄が浮かび上がるのではないか、と思うのである。

 

ヴィパッサナー瞑想を始めた時も、異なる国の異なる僧侶の方が書かれた本を何冊か読ませていただいた。

スリランカ、タイ、ミャンマー、あと、僧侶ではないが、アメリカ人の著者がゴエンカ氏の瞑想法について紹介されている書籍…etc。
ヴィパッサナー瞑想は2500年前にブッダによって編み出された修行法であり、そういう意味では根底に流れるものはどれも同じだといって良いのだろうけれど、瞑想のやり方や修行を進めて行くプロセス、瞑想時の心構えなどに関する記述には、それぞれ微妙に違いがある。

 

そんな中、全ての本が口を揃えて言っていたのが「坐る瞑想をするときには背筋を伸ばして座りなさい」ということだ(もちろん、このほかにも共通点はあるけれど…)。

だから私は割と始めの頃から、姿勢は瞑想にとって重要なファクターなのだろうな、と漠然と感じていた。

 

当初なんとなく思っていたのは、いわゆる精神鍛錬的な話なのだろうな、ということだった。

「いやしくも修行をするのであるから、だらだらしないでシャンとした姿勢を保つべし」

とでもいうような。

 

しかし瞑想を続けていくうちに、実は背筋を伸ばした方が座るのが楽なのではないかということに気が付いた。
子供のころから「背筋を伸ばしなさい!」と叱られながら育ったので、背筋というのは人から強制されて嫌々伸ばすものなのだと無意識に思っていたが、改めて人の体の構造を考えてみると、骨盤を少し前傾させ、その上に背骨をのせてバランスを取った方が楽なのは明らかだ。

 

次に気が付いたのは、背筋を伸ばすと身体だけでなく心がピッとする、ということだ。
「ピッとする」というのはどうにもあいまいな表現だが、なんというか、気持ちが引き締まる。
「笑顔を作ると楽しくなる」と言われるように人の感情は意外と身体に引きずられるものだが、要するにそういうことなのだろうかと思っていた。

実際、背筋を伸ばしている時の方が、身体や心の細かい感覚にも気づきやすい。

人の脳と身体は背骨の中を走る神経で結ばれているわけで、その通り道をあるべき形に整えた方が「通りがよくなる」のは、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。

 

そして、最近になってハタと気づいたのが、「背筋というのは、『伸ばそう』という意思がなければ伸ばしていられない」ということである。

こうやって文字にすると当たり前のことのように思えるけれど、瞑想中にその事に気付いた瞬間のインパクトは大きかった。

 

瞑想中に意識が逸れて瞑想が妄想になる、というのは誰にでもあることだと思うが、私の場合、座る瞑想中にそのような状態になると、決まって体が著しく前傾しているのに気づく。

それで、「おっと、いかん、いかん…」と体を立て直してもう一度お腹の動きに集中する、ということを繰り返しているうちに、集中というのは何分、何時間の単位でやるものではなく、毎秒単位で繰り返すものなのかもしれない、ということに気がついた。

 

「3分間の集中を1回やる」のではなく、「1秒間の集中を180回繰り返す」。

実際の単位時間は秒よりもっと短いのだろうけれど、イメージとしてはそういう感じである。

このことに気がついてから、瞑想中に意識が逸れることが大幅に減った。

 

子供の頃、学校帰りの長い坂を上り続けるのが辛くて、足元に目を落として歩いていたことがある。まだまだ先が長い、と思うとつい心がくじけるが、今この瞬間、一歩を踏み出すだけならなんとかなる。それを繰り返しながら、長い坂道をやり過ごした。

 

多分、瞑想も同じことなのだ。

世界はこれまでと変わらぬ姿でそこにあるが、それを捉える粒度が変われば、見えるものが変っていく。

そして、全てを最小の粒度で捉えられるようになった時に、この世界の真の姿に気づくのだろう。