瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

無常、無我、苦

デジタルの時代に生きる私たちは、「無常」「無我」の真理に気づく糸口を得るということに関して、とても恵まれた環境にあると思う。

あらゆるものが刹那ごとに生滅を繰り返しているということは、コンピュータの中で展開される世界が実は0と1(電流のオンオフ)だけで表現されている、ということを知っていれば割と抵抗感なく納得できる。

また、確かにそこに「在る」ように思えるスマホのアイコンは、実は絶え間なく流れ続ける0と1(生滅)の羅列でしかなく、スマホという「因」と設定情報やユーザ操作などの「縁」によって一時的にそこに「見えている」だけである。
そこから漠然と「無我」をイメージするのは、ゼロベースから無我を理解するよりは容易いのではないだろうか。

 

けれど、その理解から「だから生きることは苦なのである」という究極の真理に至るのは難しい。
なぜなら私たちは、デジタルの世界の中にわが身を置いているわけではないのだから。
プログラムコードにもしも人格があったら、苦労して出した演算結果が瞬時に流れ去って揮発することに「苦」を見出すかもしれないけれど…。

 

人に聞いて得た知識と、自ら学んで得た知識、そして体験によって得た知識は違う。
だから、どれだけ恵まれた環境に身を置いていたとしても、「頭でわかった気になる」だけでなく自ら体験して真の理解に達するために、地道に修行の道を歩き続けていかなくてはいけないのだと思う。