瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

生活の中での瞑想

ヴィパッサナーを始めるまで、瞑想とは静かな場所で目を閉じ、じっと座ってやるものというイメージを持っていた。

 
確かにそういう瞑想もあるが、ヴィパッサナーとは詰まるところあらゆることに気づいてゆく瞑想なので、その気になれば起きているあいだ中、ずっと瞑想モードでいることもできる。
 
たとえば朝、目覚める時などでも、眠りから覚醒していく様子やもう少し寝ていたいという意識、立ち上がる時の足腰の軋みなど、目覚めてから布団を出るまでの数分間にも気づきの対象は色々とある。
 
尾籠な話で恐縮だが、以前、ある僧侶の方が何かのインタビューに、「私はトイレに入る時でもサティを入れています」と答えておられるのを読んだことがある。
それ以来私は、用を足す際にも、つとめて身体と心の様子を観察するように心がけている。
 
 
動きながらやるヴィパッサナーに地道に取り組んでいると、自分の体が、いわゆる「意識」にコントロールされることなく勝手に動いていることが分かってくる。
 
私の場合、最初にそのことに気づいたのは自宅でシャワーを浴びていた時だった。
「顔をこすりたい、手を挙げる、顔をこする、お湯をかける、首をこすりたい、手を下ろす、首をこする、お湯をかける…」
と心と体の動きをひとつなぎにして観察していて、ある瞬間に「あれっ?」と思った。
首を洗った後に続けて左腕を擦ったのだけれど、「左腕をこすりたい」と意識で思う前に、すでに右腕が左腕の上を滑っていたのに気がついたからだ。
 
最近の研究によれば、脳は「なにかをやろう」という意識が現れる7秒前に、すでに何をやるのかを決めていると言われている。
私はそのことをNEWTONだか何かを読んでちらっと記憶していたのだが、その瞬間、なるほど、これがそういうことか!と、強烈な納得感を得た。
頭で知っていたことと実感が結びつく体験には、長年住み続けているわが家の壁に隠し扉を見つけるような、一種不思議な高揚感が伴うように思う。
 
 
「私」を動かしていたのは「私」ではなかった。
「私」というのは一つの揺るぎない存在ではなく、たとえていうなら脳に住む無数の小人の集合体で、多数決の結果決められたことだけが「私」と呼ばれる表層意識に手渡されている…
 
「私」はそのことを、自宅の風呂場の踊り場に素っ裸で立ち、頭にシャンプーの泡をこんもり載せた間抜けな姿で理解した。
 
いつ、どこで、どんな気づきが生まれてくるかわからない。
生活の中でのヴィパッサナーには、そんなスリリングな面白さが潜んでいると思うのである。