瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

慈悲と変容

先日、駅の待合室で座っていたら、泥酔した男性が入室してきて、見えない誰かを大声で罵倒し始めた。街へ出ればよくあることで、そういう時は目を合わせないようにして無難にやり過ごすのが、いつもの私のやり方である。

その時も手にしたKindleに目を落として、彼の方へは目をやらないようにしていたのだが、驚いたのは「怖いな」「早くどこかへ行ってくれないかな」といった感情がうっすら浮かび上がりかけてきたその瞬間に、
「この人の怒りが早く収まり、穏やかにいられますように」
という慈悲の瞑想のフレーズが、反射的に心に浮かび上がってきたことだ。

何の自慢にもならないが、以前の私は見知らぬ泥酔者の安寧を念じるような殊勝な人間では絶対になかった。ここ数ヶ月、朝晩といわず、ふとできた隙間時間や嫌なことが起きた時などに呪文のように慈悲の瞑想のフレーズを唱えていたので、パブロフの犬的に条件反射が刷り込まれていたのかもしれない。

いずれにしてもそのおかげで、彼が室内で怒鳴り続けているしばしの間、私は不愉快な思いを味わうことなく過ごすことができた。

 

 ※※※

 

この話を書いたのは、「私は慈悲の瞑想によっていい人間に生まれ変わりましたよ」みたいなことを吹聴したいからではない。
人の性質というものは、適切なステップを踏みさえすれば、自分が思うよりも遥かに容易に書き変わってしまうということに、我ながら驚きを感じたからだ。

 

慈悲の瞑想をやり始めたばかりの頃は、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
というフレーズを唱えるたびに、「これは偽善ではないのか」とでもいうような座りの悪い感情が心の中に渦巻いていた。それは、言ってみれば「私のように身勝手な人間がこんなフレーズを唱えるなんて、なんと空々しいことだろうか…」と斜に構えるような気持ちである。

それでもとにかくやってみようと、半ばノルマのように唱え続けていて、ある時「あれっ」と思った。慈悲の瞑想をやり始める前に比べて、ずいぶん生きるのが楽になってきたことにハタと気づいたからだ。

考えてみれば、自分と他人の幸せを等しく念じるということは、「私は敵を作りません」という自分への宣言のようなものだ。心の中から敵がいなくなれば、生きやすくなるのは当然だろう。

 

私たちには、「いい人」となることを心のどこかで危ぶむ本能があるが、敵を作ることを放棄していわゆる「いい人」として生きる方が、実際はずっと「楽」で「安全」な生き方なのかもしれない。

 たとえば歩きたばこをしている人を見て不愉快な気持ちになるよりは、「この人が歩きたばこで事故を起こしませんように」と祈る方が”気持ちがいい”。列に割り込んでくる人を心の中で非難するよりも、「この人の心が穏やかでありますように」と念じた方が、確実に"自分の気分がいい"。

 

一見他者の幸せを念じているように見えて、慈悲の瞑想で真っ先に幸せになるのは、他でもない自分自身なのだ。

「自分の幸せ」を求めて生きるのは身勝手なことかもしれないが、そういう穏やかな幸福感を身をもって体験していくうちに、次第に本心から「生きとし生けるものの幸せ」を願えるように変容していくのではないかと思う。