瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

「良し悪し」という概念

私が初めてヴィパッサナーを知ったのは2011年頃の事なので、なんだかんだで6年近くヴィパッサナーに関わってきたことになる。

 
といっても、初めの数年はそれほど真剣に取り組んでいたわけではない。
当初の「瞑想」は「ラベリングをしていればとりあえず頭の中から思考を排除できて楽」という程度のごくゆるいもので、真剣に取り組み始めたのはここ2〜3年のことだと思う。
 
真剣に取り組もうと思い始めてからも、初めのうちは集中力を保つのが難しかった。
というより、今にして思えば瞑想の本質を取り違えていたのではないかと思う。その頃の私にとって瞑想とは、「観察という名の思考」になっていたような気がするからだ。
 
瞑想中に「気づき」という名の興味深い思考ができた日は「今日は瞑想がうまくいった」と思い、大した気づきが得られなかった日は「今日の瞑想はダメだった」と、そういう自己評価を無意識のうちに下していた。
 
 
ヴィパッサナーで何より大切なのは(と大威張りで語れるほど私はヴィパッサナーに詳しいわけではないのだが…)、まずはとにかく「考えない」ということなのではないかと思う。
何年も回り道をした挙句にようやく「考えないでいるとはどういうことか」の糸口を体感的に把握できたたいま、以前の自分の瞑想を振り返ってそんな風に感じている。
 
良し悪しというのは、つまるところ自分の中にある一種の概念だ。
だから、自分の瞑想に自分で良し悪しの評価をつけられている時点で、そもそもそれは瞑想の本質を外れている。
 
 
ヴィパッサナーは腹筋運動のようなもので、正しいやり方で黙ってやり続ければ、そのうち然るべき変化が現れてくるものだと思う。
腹筋を割るために必ずしも「腹筋が割れるメカニズム」を理解する必要がないのと同じで、瞑想がどのように進み、どのようなプロセスを辿って自分が変化していくのかという理論をあらかじめ把握しておく必要は特にないはずだ。
やるべきこととやってはいけないことだけを頭に叩き込んだら、あとは実践するだけでいい。
 
世の中には「理論的に納得してからでないと前に進めない」というタイプの人がいて(私もそうだ)、そういう人にとっては事前にある程度メカニズムを理解しておくのも有効なのかもしれないが、そうでない人にとっては、むしろ先入観は邪魔になることもあるような気がする。
 
優れた瞑想指導者が、瞑想の進み方を事細かく教えることなく「とりあえずやってみなさい」というのは、要するにそういうことなのではないかと思う。