瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

外側と内側

心の流れを慎重に観察しつづけていると、外側から受ける刺激と、それによって内側に生まれる感情とが別のものだということが徐々に分かるようになってくる。

それはたとえば、電車の中で電話している人を見て不愉快な気持ちになった…という時に、「電話をかけている人を見た」ことと「それを受けて不愉快に思った」ことが不可分なひとつながりのものではなく、別々のタイミングで生じる独立した感覚だと分かる、というようなことだ。
「大声で電話をかけている人がいて不愉快になった」という一つのできごとに見えていたものが、実は刺激と反応という二つの要素から成り立っていたのだと気づく。

 

私がそのことにはじめて気づいたのは、自宅の台所でシンク台の角にしたたかに足の小指をぶつけた時だった。指がぶつかり、痛みが生じ、
「なぜこんなところにシンクがあるのよ!」
と身勝手な怒りが生まれるまでの流れが他人事のように見えたそのとき、
「いま、怒りが生じたのは指やシンクや痛みのせいではない。私の脳の回路が勝手に反応して怒りを作り出したのだ」
ということに思い至った。

それ以来私は、以前ほど周囲で起こる物事に動じなくなったのではないかと思う。

 

悩みも苦しみも喜びも、結局は自分の感情が作り出すものだ。
感情は外側から問答無用で押し付けられるものではなく、自分の中から生じてくる。そして、自分の中にあるものは、その気になれば自分でコントロールすることができる。

だとしたら、外側で起きることをむやみに恐れたり憂えたりする必要があるだろうか

 

渋滞にはまって3時間足止めを食らおうが、隣席の若者のヘッドフォンから音漏れしていようが、会社の資金繰りが悪化して給料日が半月ずれこもうが、必ずしも不愉快な気分になる必要はない。


問題には都度対処すればよいわけで、自らそこに怒りや不安などのオプションを追加して苦しみを増やすのは馬鹿らしい。

 

現時点では全てに対してそこまで達観できているわけではないのだけれど、この気づきは私を見えない鎖から解き放ってくれた。

外側の世界が敵なのではなく、世界と戦おうとする自分の心が敵なのだと知ることで、人はずいぶん自由に近づけるのではないかと思う。