瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

呼吸の中の輪廻

ヴィパッサナーの座る瞑想では、第一に呼吸を観察する。
観察の仕方にはいくつか流儀があるようだが、私がやっている方法では、呼吸によって膨らんだりへこんだりする腹部が最初の観察対象になる。

腹部は息を吸うと膨らみ、息を吐くとへこむ。その動きを、「膨らんでいる、へこんでいる…」と心の目で見る(感じる)。

 

始めのうちは膨らんだりへこんだりという動きだけを観察するので、たいして面白くはない。そこを、
「これも修行ぢゃ…」
と我慢して続けていると、だんだんと「動き」以外のものが心の目(意識)に入ってくるようになる。

瞑想が進むプロセスは人それぞれだろうから、これはあくまでも私の場合の話だが、動きの次は動きに連れて伸びたり縮んだりする腹部の皮膚の感覚、その次はそうした感覚が引き起こす心の変化が意識にのぼるようになった。

 

ここ数日は、そういう心の変化が何をきっかけにして起こり、どうやって消えていき、消えたあとにどうなるか…というのをもっぱら観察しつづけていたのだが、今日は心の変化自体ではなく私に呼吸をさせる「意思」のようなものが意識にのぼってきたので、それをずっと眺めていた。

 

腹部を膨らませる――つまり息を吸う動作を起こしているのは、「息を吸いたい」という私の意思だ。「息を吸いたい」という意思が生まれると同時に呼吸する動きが開始する。

その意志は息を吸い続けている間持続し、吸い切ったところでフッと消える。消えた瞬間「息苦しい」という感情が生まれ、生まれた苦しみがこんどは「息を吐きたい」という意思を生む。その意思は息を吐ききるまで続き、吐ききったところでまた苦しみが生まれる…

 

それが、ひたすら、延々と繰り返されていく。
止まらないし、止められない。

ある状態は必ず生まれて消えていくが、消えるというのは表現上の方便で、実際は別のものに姿を変えてまた次の状態を起動する。

なるほど、これが輪廻かと、その果てしない繰り返しを感じながら思った。

 

業(カルマ)や輪廻といった言葉はともすればオカルトめいた印象を与えることがあるが、その実態は、中学の理科の授業で習ったエネルギー保存の法則のようなものなのかもしれない。

 

私という系の中でエネルギーは次々に姿を変えながら回り続け、その私も、私を含む環境の中で一つのエネルギーとして回り続ける。

このフラクタルな世界のあらゆるところで、同じような回転が様々な粒度で起こり続け、全人類が苦をトリガとして生きている…そのイメージには、人を絶対的な孤独感から救う力があるような気がする。