瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

因果を観る

私は根っからの仕事人間で、暇でブラブラしているよりは仕事をしていた方が気分がいい。

しかし、それでもしばしばなんとなく仕事をしたくないな、と感じることがある。
 
考えてみれば昼間フルタイムで働いた上に夜も週末も物書きをしているわけで、疲れが溜まっても不思議ではない。年も年だし、気力みなぎる若き日と同じようにはいかないだろうとも思う。
しかし、そういう時に自分を冷静に観察すると、身体は大して疲れているわけではないようなのだ。しかも、冒頭にも書いたように、私はどちらかといえば働くことが好きである。
なのに、なぜこのような怠け心が生じるのだろう…そのことを長い間不思議に思っていた。
 
最近になって、その原因がおぼろげに見えてきた。
たとえば、2日後に締め切りを控えた原稿があり、そろそろ手をつけないとまずいなとわかっているのに、どうしても自分が机の前に座りたがらない。そういうときの感情の流れを眺めていたら、「ネタが出なくて苦しむのが嫌だ」「このテーマは苦手だな」「編集者さんからダメ出しをくらったらどうしよう」といった不安感がチラチラとみえてきたのである。
そういうことが何度かあって、ある日ふと、
「なるほど、私は『怠けたい』のではなく、挫折感を味わうのが嫌だから逃げているのだな」
と不思議な納得感がおりてきた。
 
それ以来、わけもなくウダウダと怠けてしまうことは格段に減ったと思う。原因さえ明確にわかってしまえば、なにかしら対処のしようはあるからだ。
 
 
以前、どなたかが書かれた本の中で、「しつこい頭痛の原因が親族への強い怒りだったことがヴィパッサナーで観えて、観えた瞬間、嘘のように頭痛が消えた」というような話を読んだことがある。
へぇ、そんなことがあるのか…と何度か試してみたのだけれど、どう頑張ってもそういう現象は私には起こらなかった。
こういうのも向き不向きがあるのだろうか…と漠然と考えていたのだけれど、どうやらアプローチの仕方が違っていたようだ。
 
起きてしまった現象だけを凝視しても、多くの場合、そこから本当の原因を逆算するのは難しい。なぜなら、逆算のロジックには自我の妄想が潜り込んでしまうから。
観るべきは現象そのものではなく、その現象を生み出す因果の流れなのだろう。「私」の願望や妄想などにはお構いなく流れ続ける現象の中に、真理に続く糸口がある。
 
怒りや不安や怠けといった感情そのものをどれだけ目を凝らして見つめても、おそらくそれ以上のものはみえてこないのだ。怒りは怒りであり、不安は不安であり、怠けは単なる怠けでしかない。
けれど、現象に囚われることなく生じては消えていく流れをしつこく俯瞰し続けていると、そこにパターンが浮かび上がってくる。
そのパターンにこそ、探し続けていた真実が隠れている。
 
 
最近の脳研究によれば、いわゆる「ひらめき」はある日突然突然神がかりのように生まれるのではなく、入力された情報が脳内で幾度もシミュレーションされた結果として生じるものであるらしい。
意識はシミュレーションの過程を感知することができず、無意識から絶え間なく手渡される回答候補の中からその時々に都合のいいものだけを摘まみ取っているにすぎないという。
 
日頃の生活をヴィパッサナーモードで送っていると、自分でも気がつかないうちに脳がそういう因果の流れを観察し続け、そこから勝手にパターンを抽出するのだろう。
そして、抽出されたパターンが意識に手渡された時、人は「なるほど、そういうことか」と気づく。
 
「智慧が熟する」というのは、きっとそのようなことなのだろう。
ヴィパッサナーにおいて、何も考えずにただ現象をあるがまま見続けよといわれる所以は、そういうところにもあるのかもしれない。