瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

瞑想と奇跡

いつだったか息子を呼んで折り紙を取り出し、
「お母さんがポンと手を叩いたら、この紙が半分になるよ〜」
と言いながら手を叩き、叩いた後で紙を手で折ってみせたことがある。

ワクワクした顔で見守っていた息子は、
「えー、自分で折るなんて詐欺やん!」
と鼻白んだようにぼやいたが、世にいう「奇跡」はおしなべてそのようなものなのではないかと思う。
因果の流れの頭と尻尾の部分だけを切り取って繋げて見せると、そこに「奇跡」が現れる。

「瞑想をすれば次々にいいことが起こる」という話も、これに似ているような気がする。
ヴィパッサナーの実践が良い効果を生むのは、経験上確かなことだ。でもそれは、「座った途端に嘘のように苦しみが晴れる」という類の怪しい秘術のようなことではなく、日々の実践の繰り返しによって薄紙を重ねるように形を成していく、そういうものなのではないかと思うのだ。


多分、奇跡を見たいと願えば願うほど、奇跡の発現は遠ざかっていくのだろう。なぜならそれは、タネを仕込む手品師の手元を凝視するようなことだから。

だから、ヴィパッサナーに取り組む時は「いずれ起こる奇跡」のことはとりあえず忘れて、その時々にやるべきことに淡々と励むのがよいのではないかと思う。
そうすると、忘れた頃に「あれっ」という感じで求めていた奇跡が姿をあらわす。

その頃にはかつて自分が奇跡を切望したことすら忘れている可能性もあるが、だとしたら、それこそが一番尊い「奇跡」だと言えるのかもしれない。