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瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

「引き戻し」のプロ

悩みや苦しみから自由になるためのたった一つの方法は、悩んだり苦しんだりするのをやめること。

なにを禅問答みたいなことを…と思われるかもしれないけれど、突き詰めて考えるとそういうことになるのではないかと思う。

 

悩んだり苦しんだりするのをやめられるようになる過程で、獲得するものが二つある。

一つは仏教でいうところの智慧で、もう一つは自分で自分の心をコントロールする技術。智慧だけで救われる人、技術だけで楽になる人、もっと他の要素が必要な人もいるかもしれないけれど、私の場合はこの二つが必要だった。

 

智慧というのは、「自分とは思っていたような自分ではなかった」とか、「外側で起こることとそれによって自分の中に生まれる感情は不可分なものではない」とかいうような物の見方を根底から覆すような気づきのことで、これは本を読んで理解することもあるだろうし、瞑想を繰り返す中で徐々に気づいていくこともあるだろう。

いずれにしても、そういう意識改革が起こると、それだけでずいぶん楽になる。悩んだり苦しんだりするのは馬鹿らしい、という感覚が生まれ、悩み苦しみが生じても、気持ちの整理がつけやすくなるからだ。

 

でも、そのようにして視点が切り替わっても、悩みや苦しみ、怒りといったネガティブな感情がまったく生まれなくなるわけではない。

感情は、それまでの人生でコツコツと刻み付けてきた脳の回路から半自動的に生成される。その流れを止めるためには、回路自体を書き換えるしかない。これは「五戒を守る」とか「八正道を実践する」とかいった形で生き方を整えていくことにより可能になるとおもわれるが、完全に回路を綺麗にするにはそれなりに時間がかかるだろう。

そこで、さしあたっては「生成されてしまった感情に囚われない」ことを心掛けるのだけれど、そのために必要になるのが、二つ目の「自分の心をコントロールする技術」である。

この技術は、おそらく本で読んだり人から聞いたりしただけで身につけるのは難しいが、生まれつきこれが得意な人もいるようにみえる。

 

獲得の方法は特に難しくはなく、普通に瞑想を続けていると、そのうち自然にできるようになってくる。

座る瞑想でも立禅でも、あるいは歩く瞑想でも手動瞑想でも、やり方はどれでもよいけれど、瞑想をしているといわゆる「妄想」「雑念」と呼ばれる思考が無意識のうちに湧いてくる。湧いてきたらそれに気づいて、腹なり手なり足なりにまた意識を引き戻す。

あたかも好奇心旺盛な子供がチョロチョロするのを引き戻し、引き戻ししながら買い物をする母親のように、彷徨う意識を引き戻し、引き戻ししつつ瞑想を続けていくと、いつしか「引き戻しのプロ」になる。

そうして彷徨う心を自在に引き戻せるようになった頃、日常の中で湧いた感情をそれなりに制御できるようになっている。

 

全ての煩悩を断つには、先に述べたように脳の回路を書き換えて「感情が湧かない回路」を作るしかないと思うのだが、人間社会で普通に生活しながらそれを成し遂げるのは多分難しい。

しかし、智慧とセルフコントロールの技術を身につければ、少なくとものべつまくなし苦しみ続けて生きる暮らしからは抜け出していけるのではないかと思う。

 

そんなわけで、「今日の瞑想は妄想が止まらず失敗だった」というような話をたまに聞くけれど、個人的には、妄想だらけの瞑想の方が心のトレーニングとしては有効なのではないか、とちょっと思っている。妄想が湧けば湧くほど、引き戻しトレーニングのチャンスが増えるのだから。

 

ヴィパッサナーは、「心を静かにしてじっと待っていたら天の声が智慧を授けてくれる」というような神秘的な瞑想では多分なく、ただ黙々と続けていくその過程から「自分が」「自分で」何かを拾い出す、そういう「修行」なのだと思う。

 

ヴィパッサナー修行を続けていくと、よいことは確かに起こってくる。でも、その起こり方は高い確率で期待していたものとは違う。

「瞑想に何かを期待するな」という先達の言葉は、もしかするとそういうことを表しているのかもしれない。