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瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

ヴィパッサナー冥想で何を「観る」のか

ヴィパッサナーで観る対象は、大きく四つある。

一つ目は身体、二つ目は感覚、三つ目は心、四つ目は法。身体を観るのは身随感、感覚を観るのは受随感、心を観るのは心随感で、法を観るのが法随感。

私が漫才師なら「そのまんまやんけ!」とツッコミを入れるところだが、ともあれ一般にはそのように呼ばれているようだ。

 

四つといってもこれらは全て関連しているため、どれか一つを特に選んで「今日は受随感で行こうっと♡」…というような事ではない、と思う。

そういうやり方も出来るかもしれないが、苦から自由になろうという目的から考えて、身体や感覚や心だけを眺めることにあまり意味はないだろう。ヴィパッサナーの理論をきちんと学んだわけではないのであくまでも私的体験からの推測ではあるが、人を苦しみから自由にする鍵は、多分4つ目の「法」が握っている。そして、この「法」は身体、感覚、心をまとめて観察することによって観えてくるものなのではないかと思う。

 

 

ヴィパッサナーの実践は、たいていは身体を観るところから始められる。それはおそらく、慣れないうちは身体の方が観察しやすいからで、観察力が付いてくると自然に感覚や心に意識が向き始める。

 

そこまでは割と自然に進むのだけれど、心の観察から「法」の観察進むのには若干コツが必要だ。

法、という言葉を仮に「法則」と置き換えて(本当はもっと広い概念らしい)考えると、法則を発見するための近道は、物事の繰り返しの中からパターンを見出すことだろう。何度も繰り返し現れる類似パターンを観察しているうちに、心の中で汎化(抽象化)の作業が行われ、その結果として法則が浮かび上がってくる。

体験から智慧を得るというのは要するにそういう事なのではないかと、今のところはそう理解している。

 

瞑想を続けるうちに、いわゆる「サティの高速化」みたいなことが起こってくると、面白いのでついそれにとらわれてしまう。そういう体験をした自分が、なんだか特別な存在になったような気がして、ついつい人に吹聴したくなる気持ちなども現れてくる(実は私もアメブロに結構書いた)。

でも、高速に現れたり消えたりするその現象を見続けているだけでは、苦しみから自由になるのは難しい。

 

法を観る、という言葉は仰々しいが、実際にすべきことは割とシンプルで、ポイントはおそらく「流れの一部始終を隙間なく見続ける」ということだ。

たとえば、「さっきまでなかった怒りがいま現れた」「現れた怒りがなくなった」「怒りがなくなった状態が続いている」という流れとその流れに伴って変わる身体や心の状態を観察すると、「怒りがあると眉間が重苦しくて頭が痛いし、心も重い。怒りがなくなった瞬間に心も体もとても軽くなる」みたいな傾向が見えてくる。そこから、「怒りは何の得にもならない」というある種の「智慧」が生じる。

 

「腹の膨らみ凹みから悩み事に意識が飛んだ」「悩みから腹に意識を引き戻した」「また飛んだ」「また引き戻した」「引き戻したまま腹に意識を留め続けた」…というのを観ているうちに、「腹に意識がある間は、悩みは心から消えている」ということが分かってくる。そうすると、「なんだ、悩みというのは外側の原因ではなく自分の心が作っているのだな」ということが腑に落ちる。

「さあ、法を観るぞ」と大上段に構えるのではなく、ただじっと観察するだけなのだが、一つの対象だけに留まるのではなく流れを眺めるというのが、なんとなく大切なのではないかと思う。

 

ちなみに、こういう話は実は「大念処経」という仏教の経典に一から十までちゃんと書かれているのだけれど、私がその存在を知ったのは割と最近のことだ。私は大変せっかちなのでこういう原典をすっ飛ばして近道を行くくせがあり、過去にもこれと似たような経験を何度もしてきた。

しかし、やはり何事においても「原典にあたる」ことが大切である…と、これも一種の法随感と言えるかもしれないなぁ。