瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

岸辺に上がる

少々思うところあって、しばらくブログの更新をお休みしていました。
ブログから少し距離を置いてみて見えてきたことなどがあり、今日はそのことについて書いてみようと思います。

 

距離を置こうと考えたのは、思考への執着をなんとかしたいと思ったからです。

人間は思考するものですし、それ自体の良し悪しについて一般的に論じることにはたいして意味はないと思っています。ただ、その時の私はのべつまくなし脳内に垂れ流される「文章」に辟易していて、どうにかしてこれを止めることはできないだろうかと考えていたのです。

 

いわゆる「サティを入れる」という状態にあるとき、「思考」は一時的に止まっています。その状態はとても安楽なので、瞑想を続けるうちにこの状態をずっと保ちたいと考えるようになりました。それなのに、ふと気づくと頭の中で文章をこねくり回している自分がいる。これは一体なぜなのだろうかということが、長い間不思議でなりませんでした。

 

はじめのうちは、それはいわゆる「業」なのではないかと漠然と考えていました。
作家の佐藤愛子先生がよく、「書くことは私の業だから」という表現を使われます。そういった「物書きの業」みたいなものがあり、私が文章を手放せないのもおそらくそういうことなのだろう、と。

回り続ける文章は、文字として形にしてしまうと不思議なくらいに綺麗に消えてなくなります。だから私は、脳内に淀む文章をなんとか排出するために日々ブログを書き続けていました。

 

でも、ある時ふと、「むしろ”書く場”があるからこそ文章を捻りたくなるのではないのか」という仮説が頭をよぎったのですね。
「文章を排出するためにやむを得ず書く」というのは自分に対する言い訳で、「ブログを書く」という目的を設定しているからこそ、私は常に頭の中で文章を組み立てようとしているのではないか、と。実証しようのない「業」などというもののせいにするよりは、その方がずっと妥当性があります。

そんなわけで、「書く場を断てばダラダラ思考は止まるのか」という仮説を検証する目的で、しばらくプライベートな文章を書くことから距離を置いてみることにしたのです。

 

最後にブログを更新したのは今年の2月でしたので、なんだかんだで5か月近くの休筆となりましたが、予想していた通り、暫定的に「書く場」をなくしたことで、のべつまくなし文章が流れていた私の頭は、ウソのように静かになりました。
そして、文章の流れが止まったのと前後して「サティ」を保てる時間も少しずつ増えていきました。

 

先にも書いたとおり、「思考」それ自体の善悪を論じることにはたいして意味はないと思っています。でも、思考が苦しみを招いていると自ら感じているのなら、一旦そこから離れてみることで見えてくるものがあるかもしれません。私の場合は「書く場」を断つことで「書きたい」という欲求と真っ向から向き合い、その欲求の底に潜んでいた様々な執着と対峙することができたと思っています。

 

美空ひばりさんの歌ではありませんが、私たちの人生は川の流れに似ていると思います。普通はその流れにどっぷり身を浸して、流れる水をリアルに感じながら過ごしている。それはそれで一つの生き方ですが、もう一つ、川岸に上がって流れる川を外から眺めるという生き方が確かにあります。

川岸に上がれば、ひんやりと心地よい水の感触や川底の石の滑らかな質感などを味わうことはできなくなりますが、流れに足を取られて溺れたり、尖った石に足を傷つけられたリして苦しむことから自由になることができる。

今の私は川岸に上がる生き方を目指していますが、5か月のブランクを破って今日またこうしてブログを書いてしまったように、完全に川岸に上がれるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

 

世間に身を置きつつ行う瞑想修行は、流れに入ったり川岸に上がったりを繰り返しながら地道に進めていくものなのかもしれないな、とそんな風に思っています。