瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

現世欲との折り合い

「冥想によって到達する境地と現世欲との折り合いをどうつけるか」

…一般社会に身を置きながらヴィパッサナー冥想に取り組む方は、遅かれ早かれこの命題と向き合うことになるのではないかと思います。

 

ブッダは人を苦しめるのは煩悩である、と説きました。煩悩の源泉となる欲、怒り、無知の三つの不善を心から取り除いていくことが苦しみから自由になる道であり、そのための究極の手段が、自分という宇宙を観じてこの世の法則を見出すヴィパッサナーである、と。

 

その言葉が示す通り、この世を統べる法則を理解する深度に比例する形で、欲や怒りといった煩悩を遠ざけたいという気持ちが高まります。「やってはいけない」からやらないのではなく、「やれば苦しむことが分かっている」からやめよう、と考えるようになる。

たとえば長年の間に焼き付けられてきた「回路」は、「飲み会に参加してみんなでワイワイやれば楽しいよ、参加しようよ」とせがんできます。しかし、そのいっときの楽しみの後に来る倦怠、酒を飲んでやくたいもない事を喋りまくったことへの後悔などを考えると、「まぁ、やめておくか」ということになる。

 

欲や怒りを抑えて維持する平穏な日常は、確かに心地よいものであり、それが間違ってはいないということに対する確信があります。しかしその一方で、

「でも、本当にこれでいいのか?」

と頭の片隅で囁く声を握りつぶしきれずにいる自分にも気づく…敢えて言葉にするなら、そんな感じでしょうか。

 

物欲に任せて高価な宝石を買い漁ったり、旨いものを食い散らかしたりするのは虚しいことだ、というのような話は分かりやすい。でも、仕事を頑張って成功したいとか、人類の役に立ちたいとかいう、一見「よいこと」に見える欲はどうなのか。

欲と意欲は別だと言われるものの、大抵はそうした意欲の底にも、自己顕示欲という名の小さな不善が巧妙に隠れているものです。そうしたことを全て否定するのが正しい道だとしたら、世界が存在することがそもそもの間違いの元なのだということになりはすまいか…そんな葛藤が時折心を掠めるのを、どうすることもできません。

 

※※※

先日、大学で経済を学んでいる長男から、学校を一年休学して数学を勉強し、他の学校の工学部を受け直したいと相談を受けました。彼に何があったのかは知りませんが、もっと世界のことを学び、孫正義のようにこの社会を変える人間になりたい、というのです。

その話を聞いた時、彼の意欲を好ましく思う気持ちと、「所詮この世界は捉えようもない大きな因果の流れ中で問答無用で動いているのであって、一人の人間がなにをどうしたところで大した違いはなかろう…」とでもいうような厭世的な気持ちと、相反する二つの気持ちが心の中に生まれました。

親として彼に見せたのは前者ですが、そうしながらも、彼の若い意欲を悲しい気持ちで眺める自分がいたのも事実です。

 

この問いに対する明確な答えを、今のところ私は見いだせていませんが、そうした葛藤による苦しみを手放す唯一の道は「考えない事」であり、そのためにすべきことが「今この瞬間に意識を置く」ことであるのは分かっています。

お名前は失念しましたが、以前読んだある本の中に、禅宗の老師が法話中にいきなり「パン!」と手を叩いて「これが全てでしょう」と聴衆に告げる場面がありました。結局、そういうことなのでしょうね。

 

生きることはそもそも苦しみであり、それが分かっていながらも、生まれた以上は生きていくしかありません。

人それぞれ、あるいは人生のステージごとに選ぶ生き方があり、現世欲をバネに飛躍して成長する人・時もある。そうしたことを否定するのではなく、それすらも一つの現象として淡々と受け流しながら生きていく…今の私は、そうした生き方を好ましく感じているようです。

もしかすると、それがいわゆる「中道」というやつなのですかね(^_^)