瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年3月19日 メインの意識

座る瞑想。

いつになく意識が散漫で、呼吸やお腹の膨らみ、凹みに気持ちをとどめておくのが難しい。

膨らみ、へこみ、膨らみ、へこみ… と観察していたはずなのに、ふと気がつくと昔勤めていた会社の社長のことや、息子二人を連れてドライブしているシーンや、来週明けの会議の時に話そうとしている内容などについて考えている。

そんなことを今、この瞑想の最中に考える必要は全くないということを、私は理解しているはずであり、「考えたい」という明確な気持ちがあって考えているわけではないはずなのだが、気がつくと意識が切り替わっている。

それで、そういう風に意識が切り換わる、その瞬間をちゃんと捉えたいと思った。


注意深く観察している中でふと気付いたのは、人の「意識」というのは、どうやら一つの不変の存在などではないのではないか、ということだ。

私はこれまでに「見ている私」という表現を何度か使ってきたけれど、その「見ている私」というのはずっと変わらず存在し続ける意識ではなく、「見よう」というエネルギーが生じたことによってその瞬間ごとに現れる点のような意識の集まり、あるいは「流れ」のようなものなのかもしれない。

「頭の中」には、常に無数のイメージやら概念やらが渦巻いている。そのことは少し前から気づいていたが、今朝の瞑想を始めるまでは、そういったチカチカ瞬いているイメージとは別に「それを見ている私」という不変の存在がいる、となんとなく考えていたように思う。

でも、どうもそういうことではなくて、「見ている私」というのもそういうチカチカと生滅する無数の意識と同じレベルの何かなのではないかと、今はそういう風に思うようになった。

「見ている私」という主体がいて、それに対してイメージが手渡されて意識が起こるのではなく、すべて同列で生まれたり消えたりしている意識の粒のようなものだけがあり、その時々に一番強いエネルギーで回っているものが表に現れ、「メインの意識」となる。
「見よう」というエネルギーが強ければ、そのエネルギーが次の瞬間にも持続し、エネルギーが続く限りは「見ている私」がメインの流れになる。

そして、何かの拍子にそれが弱まると、他の意識の粒、例えば昔の会社の社長とか来週の会議とかいったものがトップに躍り出て、メインの流れに取ってかわる。

どうもそういうことなのではないかと、今はそんな気がしている。

潜在意識はどうかわからないけれど、顕在意識は多分シングルスレッドで動いているのだろう。


「私が何かを考えている」のではなくて、意識たちが勝手に生まれたり消えたりして、「何かを考えている私」という流れが出来上がる。

だとすれば多分、「気付こう、見よう」というエネルギーが弱まり、別の何らかの意識に取って変わられるという現象が、「意識の切り替わり」の正体なのだろう。

なるほど、「意識の切り替わり」に気付けないのも無理はない。
だって、切り替わった時にはすでに「気付こう」というエネルギーは弱まり、意識の流れの表舞台からは引っ込んでしまっているのだから。