トグルスイッチ
思考することと「今」に意識を置くことは、トグルスイッチで切り替えられる電気回路の流れに似ていると思います。
思考モードにはまっている時は、「今」に意識を置けていない。今、この瞬間に留まっている時は、思考は姿を潜めている。
瞑想実践を始めたばかりの頃、このスイッチはほとんどの時間「思考」側に倒れていました。そのうちに目まぐるしくオンオフを繰り返すようになり、最近は自分の意思でどちらかに倒すことができるようになりつつあります。
道を歩いている時、キッチンで皿を洗っている時など、ふと気づくと思考モードにはまっていることがある。それが必要な思考であれば考えるべきことだけ考えて、考え終えたら「思考したい」という欲を手放すことでスイッチを「今」の側に倒すのです。
「今」に意識を置き続けるということは、思考したいという感情への執着を手放し続けるということでもあるかもしれません。
瞑想修行とは、究極的にはこのスイッチを常に「今」の側に倒しておけるように心を鍛えることなのでしょう。それは「思考が悪で思考しないことが善だから」というような話ではありませんが、一つ確かに言えるのは、いわゆるダルマ(法)を観るための智慧は、スイッチが「今」の側に倒れている時にしか生じてこないということです。
初期仏教でも禅宗でも、道を極めたと言われる方の言葉には、その根底に共通するエッセンスがあるように思います。そうした方々が口を揃えて仰るの が、「修行によって何かをつかもうとするな」ということです。その根拠は「物欲しげで見苦しいから」というようなことではなく、「何かをつかもう」という姿勢が思考モードであり、そちらにスイッチが倒れている限りは掴みたいものを掴むことはできないから…そういうことなのではないかなと、私なりに解釈しています。
この記事を書いている今、私のスイッチは思考の側に倒れています。記事を書かせた原動力は自己顕示欲 で、書いた記事に思うような反応が得られなければ不満という「苦」に直面するのでしょう。
そういうことが頭で分かっていながらそれでも記事を書くのは、今の私がまだ欲や慢心を克服できていないからです。
そういう自分を脚色せず、せめてありのままの自分の心を観察しながら「公開」ボタンをクリックしたいと思うのです。