瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

こま切れの涅槃

ヴィパッサナー瞑想で自分の感覚を観察し続けていると、「自分」というものに対する認識が徐々に変化していくのに気づきます。

私の感覚でいうと、それは次元を逆行していくイメージに近いかもしれません。

 

かつては立体であったものが、ある時点から時系列にスライスされた平面の集まりのように思えてくる。続いて、その一枚の平面が無数の線で構成されているということに気付く。
そして、瞬時に消えていくそうした線を眺めているうちに、線は線でなく膨大な数の点の集まりであり、どう頑張っても捉えてじっと観察できるようなものではないのだ、ということが分かってきます。

卑近な喩えをつかうなら、「塊肉からスライス肉へ、スライス肉からミンチへ」という感じでしょうか(ちょっと違うかな…)

 

たとえば体のどこかに「痛み」を見つけてそれを観察する。
はじめのうちは「肩」「足」「首」などに「ずっとに痛みがある」という捉え方をしていますが、もう少し詳しく見られるようになってくると、「どうやらこの痛みというやつは、ずっと同じ調子で存在し続けているわけではないようだ」ということがなんとなく分かってくる。更に、そうした一瞬ごとの痛みをじっと観ていると、同じ瞬間にも並行していくつもの痛みがあり、さらにその中にも現れたり消えたりしているたくさんの痛みがあることに気づくのです。

 

そういう、瞬時に現れては消え、現れては消えしてゆく無数の点の痛みは、捕まえておこうとしても到底捕まえられません。便宜上「観察する」と書きましたが、一つひとつの点をじっと見ていることはできず、出たり消えたりする流れというか、波のようなものを遠くから見ている、という表現の方が近いのかもしれません。

しかし、それをなんとか捉えようと一点に集中していると、ある時ふっと「なんにもない点」が意識にのぼります。なんにもない点、というのは表現として破綻していますが、今の私はその感覚を的確に言い表す言葉を持ちません。ある感覚が消え、次に現れる感覚へと意識が移動するまでのほんの刹那にたまたま意識のスポットが当たった時に、そういう感覚が生まれる、そういうことなのではないかな、と今は想像しています。

 

私とヴィパッサナーとの間に最初の縁を結んでくれたのは、高田さんという方の書かれた『「一秒」禅』という本の中で紹介されていたブッダの言葉です。 

 

「不思議だ、不思議だ、生きとし生けるものは仏の智慧と徳を持っているのだ。しかし、煩悩と執着があるので、それに気付くことが出来ないのだ」

 

誰の心の中にも仏と同じ智慧があり、その気になればどこまでも平らかな心の境地(涅槃)に到達できる可能性がある。その言葉は、当時抑えようにも抑えられないどす黒い怒りで苦しんでいた私には、まさに地獄の上から垂らされた蜘蛛の糸のように思えました。

 

あれから7年、残念ながらまだ「どこまでも平かな心の境地」にはたどり着けていませんが、前述したような「なんにもない点」が意識にのぼった時、直後にふとブッダのこの言葉を思い出すことがあります。

今はこま切れの点でしかないこの瞬間が、線になり、面になり、そしてあたかもひとつのかたまりであるかのように感じられるようになった時に訪れるのがいわゆる「涅槃」という境地なのだろうか…まぁ、ある種のファンタジーですけれど(笑)、今のところは漠然とそんな風に思っています。