2017-01-01から1年間の記事一覧
最近、いわゆる「慈悲の瞑想」をあまりやらなくなりました。 そのかわり、というわけでもないのですが、ふと時間ができた時などに誰かの笑顔を思い浮かべています。 私が慈悲の瞑想をしていたのは、生きる上での苦しみを少しでも減らしたいという思いからで…
思考することと「今」に意識を置くことは、トグルスイッチで切り替えられる電気回路の流れに似ていると思います。 思考モードにはまっている時は、「今」に意識を置けていない。今、この瞬間に留まっている時は、思考は姿を潜めている。 瞑想実践を始めたば…
「冥想によって到達する境地と現世欲との折り合いをどうつけるか」 …一般社会に身を置きながらヴィパッサナー冥想に取り組む方は、遅かれ早かれこの命題と向き合うことになるのではないかと思います。 ブッダは人を苦しめるのは煩悩である、と説きました。煩…
ヴィパッサナー瞑想で自分の感覚を観察し続けていると、「自分」というものに対する認識が徐々に変化していくのに気づきます。 私の感覚でいうと、それは次元を逆行していくイメージに近いかもしれません。 かつては立体であったものが、ある時点から時系列…
少々思うところあって、しばらくブログの更新をお休みしていました。ブログから少し距離を置いてみて見えてきたことなどがあり、今日はそのことについて書いてみようと思います。 距離を置こうと考えたのは、思考への執着をなんとかしたいと思ったからです。…
怠けとは欲である、という話を聞いたことがある。人は気力が出ない、動くエネルギーがないから怠けるのではなく、「何もしないという状態にとどまっていたい」という欲に動かされ、強大なエネルギーを傾けて怠けている、というようなことだ。 「怠けは欲だ」…
人間には三つの「悪」があるという。 一つめは欲、二つめは怒り、三つめが無知。全ての人にこれら三つの悪が備わっているが、どれが強く現れるかは人それぞれのようだ。そして、その傾向によって瞑想修行のテーマも微妙に変わる。 私のテーマは間違いなく「…
ヴィパッサナー瞑想を始めたばかりの頃、腹の膨らみ凹みに心を留めておくことができなかった。 自分はそうしようと思っているのだが、心は勝手にあちこちへ散らばってしまう。その原因がいわゆる「無我(あるいは非我)」にある、ということが腑に落ちてから…
ヴィパッサナーで観る対象は、大きく四つある。 一つ目は身体、二つ目は感覚、三つ目は心、四つ目は法。身体を観るのは身随感、感覚を観るのは受随感、心を観るのは心随感で、法を観るのが法随感。 私が漫才師なら「そのまんまやんけ!」とツッコミを入れる…
悩みや苦しみから自由になるためのたった一つの方法は、悩んだり苦しんだりするのをやめること。 なにを禅問答みたいなことを…と思われるかもしれないけれど、突き詰めて考えるとそういうことになるのではないかと思う。 悩んだり苦しんだりするのをやめられ…
「無我」を理解するはじめの一歩は、「『自分』は自分が考えていたような『自分』ではなかった」というような感覚だったと思う。 「自分」の中には複数のいろんな「自分」がいて、そういうたくさんの自分の合議制で「自分」というものが成り立っている。この…