瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年4月7日 六門総動員

食事中の瞑想

今朝、瞑想モードで食事をした後で、食事というのは、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、意識、仏教でいうところの六門を総動員して行う壮大なオーケストラのような行為だなぁとふと思った。

食べ物を見て、フォークなどに刺して口元に運び、口に入れて味わい、匂いを嗅ぎ、噛み砕く音を聴き、舌や上顎、飲み込んだ後は喉などに触れる感覚を感じる。それらすべての動作からランダムに生じる意識を受け取る。

舌で食べ物を味わう、という行為も実際は非常に複雑で、口に入れた瞬間から食べ物が喉に下りていくまで、舌のあらゆる場所で次々に異なる感覚が生まれては消えていく。


食事というのは一般には楽しいことだと認識されていると思うのだが、食事中、感覚に対する反応を注意深く観察していると、実は結構「苦」の反応が多いことに気づく。

例えば私はチーズが好きで、4個100円くらいのベビーチーズを毎朝一個か二個食べる。
目の前にあるチーズを食べよう、と手にとってアルミの個包装を剥こうとする時、まず「剥くのが面倒だ」というような煩わしさが生まれる。この反応は苦か楽かといったら、まぁ、苦だといえるだろう。

包装を剥いて口に入れる直前に、歯にまとわりつくようなチーズの食感を思い出して、一瞬「嫌だな」と思う。苦である。
口に入れて一口噛むと思った通りに歯にまとわりつき、「あ、やっぱり嫌だった」と思う。これも苦だ。

匂いや味の中にも好きなものと嫌いなものとが複雑に混ざっていて、嫌な方を感知すると苦が生じるし、噛んでいるうちに歯と歯茎の間に食べ物が挟まれば、うんざりしてやっぱり苦が生まれる。

熱いスープなどが舌を焼く感覚は文句なしに苦を生むだろうし、そうやって改めて考えると、ブッダが「生きるとは即ち苦である」と仰ったのはまったくその通りであるなぁ、と変なところで納得する。


ところが、咀嚼した食べ物が舌の付け根のあたりのある一箇所の上を通り過ぎるときに、恍惚に近い満足感が生まれる。これは、感覚の強さは異なるにせよ、いわゆる性的快感と同種の感覚なのではないかと、個人的には思っている。


食べることと生殖は、生物が生きながらえていくために必要不可欠な行為だが、摂食活動も性行為も、一つひとつの動作を分解するとその大半が「苦」で構成されている。

「殖える」という遺伝子の至上命題を成し遂げるためには、そういうめんどくさくて苦しいことをしなくてはならないわけだが、苦しいばかりでは誰もそんなことはやらないに違いない。

だからこそ、苦を承知の上で行為に及ぶための仕掛けとして、そういった生理的な快感という「ご褒美」が用意されている。

そういうことなのかもしれないなぁ、と、この辺は私の妄想である。