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瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

ヴィパッサナーと慈悲の心

このところ「他者の心の流れを観る」ということにチャレンジしている。

「観る」といっても他者の心が実際に読めたりするわけではないため、正確には「想像する」というのが近い。
「視覚が何かを捉え、捉えたことを認識し、認識したものを判断し、そこから何らかの感情が生まれる」…そういう、自分の心に生じる流れと同じことが自分以外の生命にも起きているのだと仮定して他者の姿を眺める、というようなことだ。

 

たとえば、会議中にAさんとBさんの意見が合わずに口論が始まる。
Aさんがなにか言いかけたのを畳みかけるようにしてBさんが反論をし、それをまたねじ伏せるようにしてAさんが言い返す。

その様子を眺めながら、
「今、Bさんの声が耳に触れた。触れた声を言葉として認識した。認識した言葉が解釈された。記憶の回路がその言葉を自分への攻撃とみなし、反撃の意思が生まれた」
…というように、Aさんの心の流れを想像してみるのである。

 

面白いことに、これを何度も繰り返していると、他人に対する怒りの気持ちが生まれにくくなってくる。

ヴィパッサナーを続けていると、「自分」というのはそれまで思っていたような確かな存在ではないことが感覚として分かってくるのだけれど、同じプロセスを他者にも適用することで、自分も他人も同じなのだということが理屈抜きで腑に落ちるのかもしれない。

 

「私」も「あなた」も「あの人」も、その時々の状態から機械的にはじき出されるアルゴリズムによって半ば強制的に動かされている操り人形に過ぎない――そういう風に見え方が変わると、他者に対して怒るのが馬鹿らしくなってくる。

なぜならそれは、パッティングマシーンの前に仁王立ちして飛んでくる球に怒鳴り返すようなことでもあるからだ。

 

誰もが得体のしれない「自分」から、問答無用で押し付けられる感情に翻弄されて生きている…そう考えると、同じワンマン上司の下で苦労する同僚を見るような共感を伴った慈悲の気持ちが生まれてくるのは興味深いことだ。

それは、かつての私が慈悲の瞑想のフレーズを唱えて半ば無理やり自分に植え付けていた、かりそめの慈悲の気持ちとは根本的に性質が異なるものだ。
そこには一般に「愛」という言葉で表されるような優しさや温かさはない。
「やれやれ、困ったことですなぁ」
と苦笑いしながら並んで茶を啜るご隠居の淡い友情のような、どこか枯れた感情として、今の私には映っている。