瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

感覚の分解

私は昔から体が硬く、正式な結跏趺坐というのを組むことができない。
仕方がないので胡座(あぐら)をアレンジしたような座り方で座る瞑想をやっているのだけれど、どこかで血行や神経が圧迫されるのか、一時間くらい座っていると、いわゆる「痺れ」が生じてくる。

初めの頃はそれが嫌だな…と少しうんざりした気持ちになっていたのだけれど、最近はこの痺れが興味深い観察の対象になっている。

いつだったか、痺れが生じ始めたので「痺れている、痺れている」と念じながら足の感覚を観察していて、ふと、痺れというのはまとまった一つの感覚ではなく、「痛みの粒」のような細かい感覚が出たり消えたりすることで生まれているのだな、と気がついた。

うまく言葉にしづらいのだけれど、それまでは波のようにうねりながら切れ間なく続くひとつながりの感覚が痺れだと思っていたのが、そうではなく、瞬時に現れては消える小さな痛みの粒が一定期間中に同じ範囲に固まって生じているのが痺れ、というように見え方が変化した。

意識がそういう粒の集まりのようだということはもう少し前から感じていたけれど(http://okan.hatenablog.com/entry/2016/08/14/233950)、身体の感覚として感じたのは、この時が初めてだったと思う。


痛みの粒の一つを見つけ「痛み」として捉えると、捉えた瞬間にそれは嘘のようになくなってしまう。すぐそばでまた別の痛みの粒がみつかるので、またそれを念じようとするのだけれど、それもつかまえたと思った瞬間に消え失せてしまう。

一つひとつの痛みの粒には特に何の関係もなく勝手に生まれたり消えたりしているようにみえる(感じられる)のだが、それが寄り集まると全体として「痺れ」という流れになる。

そう思って改めて他の感覚を見直すと、痺れではない痛みも同じように細かい粒が出たり消えたりしているし、音なども小さな振動が集まって音という流れになっているようだ。
そして、現れた感覚は、例外なくすべて消えて無くなってしまう。


自分の感覚として観察できているのはここまでだが、そこから想像を膨らませると、この世に存在する物や生命、概念などのあらゆるものも、おなじように現れたり消えたりしているのだろうな…ということに思い至る。
まぁ、これは妄想なのかもしれないけれど…。


ところで、そうやってこまかく分割していくにつれて、痛みや雑音のようないわゆる不愉快な感覚に対する嫌悪感・恐怖が薄まっていくのは面白いことだと思う。
以前、マッキンゼーの問題解決マニュアルみたいな本で、「難しい問題は細分化することで取り組みやすくなる」というようなTipsを読んだ記憶があるのだけれど、人の感覚にも同じTipsが応用できるのかもしれない。


この世を統べる法則は、どんなところにも等しく働いている…そういう風に感じられるのは、異なる領域に共通する事柄を見つけるのが好きな私にとって、なんとなくワクワクすることでもある。