凪いだ心
つい最近、私の身辺にとんでもない出来事が勃発した。
このような場で嬉々として語るような話ではないため詳細は伏せるが、これがドラマなら私の立場にあるキャストは泣きわめき、自分の境遇を呪い、世をはかなんで出家でも考えかねないようなゴツいやつだ。
5年前の私だったら、心身をやられて神経外科の門をくぐっていたかもしれない。
ところが、今現在の私は、自分でもびっくりするほど心が凪いでいる。
厳密にいえば不安や悲しみなどの不快な感情がまったく生じないわけではないのだけれど、そうした感情は生じたそばからほろほろと消えていってしまう。
その様子を観察すると、起きているのはどうやらこういうことだ。
まず、何か不愉快な感情が姿を現した時に、割と早めにそれに気づくことができるようになった。くわえて、気づく事によって感情のループに取り込まれることなく、それを一歩外側から眺められるようになった。
そして、たぶんこれが一番大きいと思うのだけれど、そういう感情は「私」が自分で生み出しているのではなく、脳の回路が半ば勝手に生成しているのだ、という風に考えられるようになったことで、その感情に執着する気持ちが薄くなった。
「私が苦しんでいるのだから苦しいに決まっている」
という感覚が弱まり、
「押し付けられた感情に翻弄されるのは馬鹿らしい」
と思えるようになった。
また、生まれた感情は放っておけば必ずいずれ消えて無くなるということを体験を通して理解できたことで、仮に感情に流されかけても「そのうち消える」と自分を落ち着かせて、その状態を冷静に見ていられるようになった。
いまここで私が悩もうが苦しもうが、起こることは起こるし起こらないことは起らない。ならば、既に過ぎてしまった過去やまだ訪れてもいない未来に心を飛ばして悩み苦しむのは馬鹿らしい。
問題が起きたらどう対処すべきかをフラットな気持ちで考え、その都度やるべきことをやる。
その際、自分を守ろうと思うと苦しみが増えることも分かったので、第三者的な視点で事態を見て「この状況で誰もが取るであろう最良の方法は何か」と考えるように心がける。
起きたことは好ましくないことでも、それに対して自分は冷静にやるべきことをやっているのだという自己イメージは、更なる苦しみの発生を押しとどめてくれる。
外から見てどんなに惨めで辛そうな状況下にあっても、心さえ凪いでいれば人は決して不幸ではない。そのことを改めて実感している。
これを書いたのは、苦しい状況にある自分を鼓舞するための強がりからでも、そのような境地に達したことをひけらかしたいからでもない。
ほんの数年前の私は、四六時中怒りと不安に心を焼かれていつも苦しい思いをしていたのだけれど、そんな私でも、地道にヴィパッサナーに取り組んできて、こういう境地にたどり着けた。
だから、今、色々なことで苦しみながら壁を超えられずにいる人たちも、「苦しみは必ず消せる」と信じて進んで欲しい、そんなようなことを誰にともなく伝えたかったからだ。
私は本来、修業半ばにある分際で人に物を教えることには抵抗を覚える方だ。
でも、たとえ誰から非難されようともこれだけは書いておきたい、これを書かなければこんな日記を書いている意味はないのではないか…そんな風に思いながら、いま、これをしたためている。