瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

「無我」の理解

「無我」を理解するはじめの一歩は、「『自分』は自分が考えていたような『自分』ではなかった」というような感覚だったと思う。

 

「自分」の中には複数のいろんな「自分」がいて、そういうたくさんの自分の合議制で「自分」というものが成り立っている。このような主張は最近脳科学脳科学の本などにもよく見られるけれど、ヴィパッサナーで自己観察を続けていると、そういうことが理屈ではなく体感として分かってくる。

 

それは、「瞑想によって特殊能力を得たから分かるようになる」というような神秘的な話ではない。

「『自分』は腹の膨らみ凹みに集中しようとしているのにふと気づくと別のことを考えている」とか、「背中に痒みが生じた時、『搔こう』と明確に意識する前に勝手に手が動いている」といった奇妙なズレのようなものが、集中して観察していると普段より鮮明に分かる。

はじめは「あれっ?」というくらいの小さな違和感なのだけれど、それを日々繰り返し見続けているうちに、「ああ、やはりそういうことなのだな」という納得感が生まれてくる。

 

自分が自分だと思っている自分は「自分株式会社の代表取締役」のようなもので、その背後には何万、何億という従業員が控えている…そういうイメージがなんとなく出来上がってくる。難しい言葉で言うと、「固定化された自我が解体され始める」ということなのかもしれない。

 

この視点の切り替わりによって何が起こるかというと、自分を縛りつけていた責任感の重みのようなものがまず消える。

怠けや怒り、醜い嫉妬のような感情が湧き上がっても、それは自分が好きでそうしているわけではない。その瞬間の記憶や脳の回路の状態によって不可避的にそうなっているのだから仕方がないではないか…というある種の諦め・開き直りのような状態になり、結果として心が少し楽になる。

つまり、何か悪い感情が生じた時に「醜いことを考える自分」を自己嫌悪して苦しむのではなく「うちの部下がスミマセン」とでもいうような感覚になってくる。

そして、部下のために頭を下げるのも愉快なことではないから、その不愉快を取り除くために悪感情の「因」となるものを心から排除していこう…という気持ちが生まれてくる。

 

そこから更に観察を続けていくと、自分の中にいる無数の自分も固定化された存在ではないのだな、ということが見えてくる。今この瞬間に「背中が痒い」と感じている自分がいても、それは自分の中のどの部分なのかを特定することができないし、その自分と10分前にも同じ場所を痒がっていた自分も完全に同じではあり得ない。

そうすると「なるほど、自分株式会社の従業員は正社員ではなく、日雇いで入れ替わり立ち替わりする派遣労働者のようなものなのだな」という視点が生まれてくる。

 

最終的には代表取締役である表層意識すら固定化されたものではないのだな、という理解にたどり着く。なぜなら、表層意識として感じている感覚・心の動きすら、刻一刻と変わってしまうから。

そして、「自我とはこのような曖昧なものだったのか」「ならば、自分の感情に執着したり、喜びや苦しみに一喜一憂しても仕方がない」と思うようになる。

 

そうこうするうちに心が落ち着いてくると、自分の中だけでなく周囲の世界を同じような視線で眺められるようになってくる。

「自分は思っていたような自分ではなかった、ならば他人もおそらく同じだろう」という感覚が生まれ、自分と同じように曖昧に変わり続ける自分に振り回されている他人に対して、怒ったり期待したり失望したりするのはナンセンスだと思うようになる。

 

…これはあくまでも私自身が辿ったプロセスで、他の人がどのような道筋を辿るのかはわからないけれど、話を聞いていると大体このような流れになるのではないかと思う。

 

私は仏教徒ではなく、仏教的な悟りや解脱にさほど強い関心はないけれど、今のこの境地は私にとって心地よいものだ。この状態を保ち続けるためにヴィパッサナーを続けているし、これからも続けていこうと思っている。

かつて激しい怒りを消したい一心で始めたヴィパッサナーは、今、私にとって心のメンテナンスのために通う整体院のような存在となったといえるかもしれない。