瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

狡猾な怒り

人間には三つの「悪」があるという。

一つめは欲、二つめは怒り、三つめが無知。全ての人にこれら三つの悪が備わっているが、どれが強く現れるかは人それぞれのようだ。そして、その傾向によって瞑想修行のテーマも微妙に変わる。


私のテーマは間違いなく「怒り」なのだが、怒りにも色々な形がある。

何度も書いているように、ヴィパッサナーを始めるきっかけとなった激しい怒りと憎しみのような感情は、おかげさまで随分抑えられるようになってきた。しかし、怒りは一見そうとは思えない様々な感情に姿を変えて、いまも狡猾に私を操ろうとする。
 
たとえば、人の言動を批判したくなる気持ちの源泉は怒りである。人間は他人を批判する時、自分がその人より正しく尊い立場に立っていると無意識に思うものなので、そのカタルシスに騙されて、底に潜む怒りにはなかなか気づけない。そして、気付けないままに自分で自分の心を汚してしまう。
 
怒りや慢心がよくないのは、それが結局自分を苦しめる「因」になるからだろう。苦しい境遇に陥ると、人は周囲に迷惑をかける。結果として色々なことが悪い方向へと動いていく。だから、

「やれやれ、あんなことして見苦しいな…」

「あの人はもっとこういう風に振る舞えばよいのに」

「あの人の主張は間違っている」

…などという批判の気持ちが湧いてきたら、「私は正義を行使している」というまやかしの恍惚感に騙されることなく、自分が自分に向かって毒を吐いているのだと気づかなくてはいけない。
 
瞑想モードで自分を見ていると、そういう狡猾な怒りが絶え間なく生まれているのがよくわかる。生まれてしまったものは仕方がないが、それをそのまま放置しておくと、感情は雪だるま式に膨らんで手のつけようがなくなってしまう。だからできるだけ早めに怒りに気づいて、それ以上膨らませないように心がける。
自分の主張がいかに正しく思えようと、それが唯一絶対の真理であるなどと言うことはありえない。仮にそうであったとしても、敢えてそれを盾に他国侵略を試みて、自軍を消耗させる必要もない。

まぁ、口で言うほど簡単にはいかないこともあるけれど…。
 


私は仏教をきちんと学んでいないので正確なことはわからないが、無常、無我、苦や因果の法則を「観る」ことだけがヴィパッサナー修行の「ゴール」なのではないのかもしれない…と最近は考えるようになった。
そういうことがある程度腑に落ちたら、そこから先は行いを慎み、自分とも他人とも争わない生き方を心がけるという次なるステージが始まる。

そうやって自分を苦しめる原因となる心の汚れを剥がしていくのが、ヴィパッサナーという修行法の本質なのではないかと、そんな風に思うのだ。