ゆでたまご
朝食にはゆで卵を食べることが多い。
卵はどちらかといえば固ゆでが好みで、水から入れて強火で15分ほどゆで上げる。
その日も卵と水を鍋に入れて強火にかけ、タイマーを15分にセットしてスタートボタンを押そうとしたところで、
「そういえば、なぜ私は強火で15分ゆでると固ゆでになることを知っているんだろうか?」
とふと思った。
知っていた理由は、おそらく以前何かで読んだか、人から聞いたかしたからだ。それで実際に15分茹でてみて固ゆでになることを確認し、以後はゆで時間に悩むことなく、タイマーに15とセットし続けている。
これは、真理と知識と瞑想の関係にちょっと似ているのかもしれない…と、いい具合に茹で上がった卵を食べながらふと思った。
15分茹でると卵が固ゆでになることを、私のように知識として外から仕入れて知る人もいれば、何度か実際に卵をゆでてみてちょうどよいゆで時間を発見する人もいるだろう。
どちらの方法で理解しようとも、卵はちゃんと固ゆでに茹で上がる。
本を読んで学ぶよりも身を以て学ぶ方が、鮮烈な体験になるという事は確かにある。そして、体験が鮮烈であればあるほど、既存の思考パターンを書き換える力が強いのは確かなことだと思う。
けれど、卵の茹で時間を知るために必ずしも何度もの失敗を経て体験から学ぶ必要はおそらくないだろう。先人の知恵が既にそこにあるなら、それを活用した方が効率が良いこともある。
私は本も読むし瞑想もする。
本から何かに気づくこともあれば、瞑想中に何かを発見することもあるし、外から仕入れたいくつかの知識が素材となって脳内発酵し、瞑想モードの時にいわゆる「智慧」として現れることもあるかもしれない。
どんなルートであらわれようと、その気づきが生きることを楽にしてくれるのであればそれでいい。
今のところは、とりあえずそんな風に考えている。