タイムラインの自我
ブッダは「自我は幻である」とを説かれたそうだが、最近は脳を研究する学者の間でも、同じようなことが言われ始めているらしい。
fRMIのようなツールが登場したことで、脳のどの部分がどんな心の働きに関係しているのかを視覚的に把握できるようになり、たとえば怒っているときは脳のこのへん、好きな人のことを思い出しているときはあの辺が活性化する、といったことが明らかにされつつある。
しかし、そのような手法をもってしても、自我、すなわち我々が「意識」と呼んでいるものの座が「どこ」にあるかは解明できていないという。
最近読んだ数冊の本の内容を総合すると、意識というのは、脳内で起こる葛藤を一つにまとめ上げる過程で生まれてくるのではなかろうか、という考え方が、最近では主流となりつつあるようだ。
脳の中には無数の小人が住んでいて(比喩である)、外からなにかしら刺激を受けると、その小人たちがどう反応すべきかを個々に主張する。
たとえば美味しそうなケーキを目の前にして、あるものは「食べたい!食べるべきだ」と主張し、あるものは「いや、太るからやめよう」と主張する。身体は一つしかないため、対立を経て最終的にはどれか一つの主張が採用されることになるが、その過程で、我々が「意識」と呼んでいるものが浮かび上がってくる。
以前、瞑想中に雑多な意識のかけらのようなものが猛スピードで出たり消えたりするイメージを見て、「なるほど、私が『私』だと信じていたものの正体はこれか」と愕然としたことがあるが、それはもしかするとこういうことだったのかもしれないなと思う。
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Twitterでたくさんの人をフォローしてタイムラインを眺めていると、これと同じような様子をそこに見いだすことができる。
数千人のTwitterrer(といってもアクティブに発言しているのはそのうちのごく一部だろうけれど…)は、普段はそれぞれが思い思いに色々な事を呟いているが、ひとたび何かが起こると、まるで何かに導かれるかのようにして急速にある一つの状態へと収束していくような動きが現れる。
たとえばどこかで地震が起きると、何人かが瞬時に「揺れた!」とツイートする。それを受けて、「あ、ホントだ揺れてる!」「うちは揺れてないよー」「◯◯地方だけか?」というようなツイートが流れ、最終的に誰かが確かなニュースソースから速報などをリツイートする。
その流れは特定の「誰か」がコントロールしているわけではなく、ただ自然にそのように動いていくのだが、それを外から眺めていると、あたかもタイムラインが一つの意思を持って動いているかのように見える。
「自我は幻である」という一つの真理は、そんなところにもチラリとその姿をあらわす。
真理とは、誰かがあえて語るまでもなくただ厳然としてそこにある法則のことをいうのかもしれない。
そういうものに、自分という最も身近な媒体を通して近づいていく…ヴィパッサナーとは要するに、そういう「修業」なのだろうなとあらためて思う。