瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

2016年8月29日 痛みと痒み

座る瞑想をしていると、体のどこかに原因不明の痛みや痒みが現れることがある。

 
そういうとき、痛みよりも痒みの方が耐えるのが難しい。
痛みはじっと観察していればじきに消滅することが多い。しかし、痒みの方は大抵の場合、耐えられずに手を伸ばして掻いてしまう。
程度にもよるが、大体の傾向としてはそうであり、それは何故なのだろうかというのが、長年の疑問であった。
 
先日、瞑想中に痒みが現れた時、「痒み、痒み」から「掻きたい、掻きたい」へと移り変わる自分の心を観察していて、掻きたいという気持ちの背後に、何かを期待するような気持ちがチラリと見えた。
 
それで、引き続き注意深く観察しながら手を伸ばして患部を掻き下ろした瞬間に、恍惚とするような快感に満足している自分の心に気がついた。
 
ああ、なるほどそうだったのか、とそれで長年の疑問が氷解した。
痒みを取り除きたいという意思の背後には、痒みという不快に対する怒りと、痒みを取り除く瞬間に味わえる快感への期待が隠れていたのだ。
欲と怒りのダブルパンチでは、生半可な意思ではかなわないだろう。
 
以来、耐え難い痒みが湧き上がってきた時は、その背後にある「快感への期待」を捉えて「期待している、期待している」という気づきを入れるようにしているのだが、そのするようになってから、瞑想中に痒みが現れること自体が減ってきたような気もする。
 
「気づけば消える」ということが、ヴィパッサナー瞑想ではしばしば起こる。
人の心というのは、本当に興味深いものだと思う。
 

座禅会と瞑想

近くのお寺で早朝坐禅会をやっていると聞いて、後学のために参加してきた。


わざわざ外へ行かずとも、家で一人で座っていればいいようなものなのだけれど、たまにはそういう場へ出てみるのも勉強になるのではないかと思った。
 
 
坐禅は、経行(きんひん)と呼ばれる軽い散歩を挟んで30分ずつ二回行われた。
薄暗い禅堂の単という畳の上に座布を敷き、20人弱の参加者が向かいあわせに座る。
木版を叩く音で坐禅が始まり、雲水さんの合図で終わる。
 
 
禅堂への出入りの作法などは周りの人を真似したが、座って目を閉じればいつもの瞑想と変わらない。
坐禅だから禅宗に習って心の見方を変える、などという器用なことは私にはできないし、そうする必要性も感じなかった。
 
 
一つ面白かったのは、人の気配の感覚だ。
警策を持った雲水さんが目の前を通り過ぎると、まずは足音でそのことがわかるのだが、足音だけではなく、眉間のあたりに圧力がかかったような感覚としても、人が間近にいることが感じられる。
 
それが空気の流れなのか、その人が発する気のようなものなのか、そのへんはよく分からないけれど、こういうのは家で一人で座っていては分からないことで、なかなか面白い経験だった。
 
 
坐禅の後は縁起についての法話を聴いてからお粥を頂き、諸連絡の後で解散。
 
色々と勉強になったが、瞑想をするだけならやはり家で一人でやればいいのではないか、という気もしているので、次の参加はないかもしれない。
 
 
一人心をおさめるための禅の修行や瞑想をするにあたっても、私たちはこうして同胞と集う。
そういう人の業のようなものが、不思議でもあり、どこか愛おしくもある。
 
 

「かわいそうな私」

何か辛いこと、悲しいこと、悔しいことなどがあって思わず涙がこみ上げる…という経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思う。

 
私の場合、そういう瞬間の心を観察すると、根底に「自己憐憫」が隠れているのがかすかに見える。
 
涙ぐむきっかけとなった出来事が仕事の失敗であれ、家族との行き違いであれ、突然襲ってきた寂しさであれ、ぐっと胸にこみ上げてくるものを捉えてよく観ると、
「私はなんて可哀想なのだろう」
とでもいうような意識が伺えるのである。
 
面白いことに、それに気づいた瞬間こみ上げてきたものはスッとおさまり、涙はどこかへ引っ込んでしまう。
なにしろ、自分を哀れんで涙ぐんでいる自分の姿を目の当たりにするほど恥ずかしいことはなく、どんな感情の昂りも、冷水を浴びせられたかのように一瞬で冷めてしまうのだ。
 
 
感情という見えない檻を開ける鍵は、「その感情には価値がない」と気づくことなのかもしれない。
 
可哀想な私に寄り添って泣いてあげるのが尊いと思っているから、とめどなく涙を流す。
怒ることが自分を守るための崇高な行為だと思っているから、どうでもいいことにも腹をたてる。
 
 
自己憐憫にも怒りにも何の価値もないと気づくこと、そうした感情に対する執着を一つずつ捨てていくことで、私はきっと一歩ずつ自由に近づいていくのだと思う。
 
 

2016年8月14日 意識の粒

座る瞑想。

 
目を閉じてお腹の膨らみ凹みに集中し、心が静かになってくると、高速で明滅する意識の断片のようなものが見えはじめる。
 
意識というものは一本のシームレスな線のようなものだと、以前は思い込んでいた。
けれど、今感じていることが間違いでなければ、意識は無数の点を繋げて作られる流れなのかもしれない。
 
現れては消える意識の断片を見るのは、ちょうど土砂降りの日の池の表面に立つ水しぶきを眺めるのに似ている。
めまぐるしく現れたり消えたりする意識の粒を全て捉えるのは、今の私には難しいのだけれど、それらの無数の粒の中から今この瞬間に優位になっている意識に一番近いもの、あるいは一番大きくて目立つものが、次の瞬間の意識になっているようだということはぼんやりと分かる。
そうやって拾い上げた無数の粒が数珠のように繋がって、意識の流れができているようだ。
 
瞑想中にお腹の膨らみ凹みに意識をとどめ続けるということは、刹那ごとに「お腹の膨らみ凹みを見る」という同じ種類の粒を選び続けるということ。
そして、意識が妄想へと逸れるということは、ある刹那にうっかり違う粒を選んでしまったということ。スタート地点でのわずかな角度のズレが進むにつれて大きな誤差を産むように、そこを起点として、心は大きく道を逸れた別の「流れ」を作り始めてしまう。
 
一瞬、一瞬気を抜くことなく、同じ種類のを選び続けるということ…一つのことに集中するというのは、要するにそういうことなのかもしれない。
 
 
 
 

2016年8月8日 立つ瞑想

明日、会社へ持っていくお茶を淹れるためにヤカンに水を入れて火にかけ、お湯が沸くまでの数分に立つ瞑想をする。

立つ瞑想をしていていつも思うのは、なぜ体は目を閉じてじっとしていると前に倒れていこうとするのだろうかということだ。
立つ瞑想だけではなく、座る瞑想でも、ふと気づくと上体が思い切り前のめりに倒れていることがある。

体を支えているのが骨と筋肉だとしたら、一瞬前に起きていた体が何もしないのに前傾していくというのは何かおかしな話である。
それで、体が前のめりになる瞬間を観察し、そうでない時と比較をすれば、その謎が解けるのではないかとふと思った。

立ちながら足と骨盤のあたりに意識を置いて、立っている、立っている、と考えている時は、体はきちんと立っている。
しかし、しばらくすると意識が遊び始め、沸騰しつつあるヤカンが立てる湯気の音とか、生ぬるい辺りの空気とかにチラチラと浮気をし始める。
体がユラユラと揺れ始めるのは、どうもそういうタイミングのようだ。

そういえば座る瞑想で体が前のめりになっている事に気づくのは、たいていの場合、半分寝ていて意識が抜け落ちている時のような気もする。

だとすると、体をこうやってまっすぐに立てておくためには、筋肉と骨だけではなく、体を立てておこう、立てておかねばと思う意識の力も必要なのだろうか。

物の本によれば体の動作に関する仕事のほとんどは小脳が担当しているそうだが、大脳皮質の活動が静まる睡眠中に立っていることができない(できる人もいるかもしれないが…)事を考えると、小脳に対して「この体を立たせておきたい」という信号が大脳から出されてはじめて、私たちは体を立たせておくことができるのかもしれない。


五戒と八正道

五戒や八正道と瞑想修行は、切ってもきれない間柄にあるのだな、という事に最近ようやく気がついた。

私がヴィパッサナーを始めたのは、ある人に対する激しい怒りと嫌悪感を鎮めるためだった。
初めの頃は、言うなれば一種のアンガーマネジメントのようなつもりで瞑想に取り組んでいたのではないかと思う。

ヴィパッサナーが仏教の瞑想法であることはもちろん理解していたが、五戒とか八正道とかいうのは、なんというか、手垢のついた道徳観を並べただけのものみたいなイメージで捉えていて、正直なところ、それらについて真剣に理解しようと言う気持ちはあまり抱いていなかった。

けれど、ある時を境に五戒や八正道をきちんと守りたい」という気持ちが自分の中に芽生え始めた。きっかけは瞑想中のちょっとした体験だったと思うが、いずれにせよヴィパッサナーを初めて5年目にして、私は酒もタバコも薬(睡眠薬とか)も止めた。
嘘は極力つかないようにし、殺生からなるべく遠ざかり、淫らな行為…はもともとしていなかったけど(笑)、今の私は5年前の私に比べて、随分真面目になったと思う。

八正道の実践は、正直まだまだできていないことも多いのだけれど…


五戒を守り、八正道を実践しながら生きることは、心を育てていくために必要不可欠な事だと思う。

なぜ殺してはいけないのか。
生き物を殺せば自分の心に必ず苦しみが生まれるからだ。

なぜ嘘をついてはいけないのか。
嘘をつけば周囲の人との関係が悪化し、周囲の人との関係が悪化すれば自分の心に苦しみが生まれるからだ。

なぜ酒を飲んではいけないのか。
酒を飲むと意識が不確かになり、心をコントロールするのが難しくなるからだ。
そして、コントロール不能な状態でやらかしてしまったあんなことやこんなことは、後々必ず自分の心を苦しめることになる。

「手垢のついた道徳観」、などと軽視していたかつての自分が恥ずかしいが、生きている間にこうして理解する事が出来て、本当によかった。


道徳は、外から手渡された言葉だけをなぞっていても、その真意にたどり着くのは難しい。
けれど、一つずつ丁寧に紐解いていくと、そこには全て真理につながる深い意味があるのだと思う。


2016年5月28日 重いのは身体ではない

身体が重い、ダルい、と言う表現をしばしば使うけれど、そういう時に重かったりダルかったりするのは、実は身体ではなく意識の方ではないのだろうかと、最近思うようになった。

今日はちょっと疲れたな…という日に身体を観ていると、頭では「身体が重い」と思っているのに、体のどこにも「重い」ところを見つけることができない。
一方で、意識の方からはしきりに「ダルい」「辛い」「眠い」「横たわりたい」というようなシグナルが送られてくる。

そういえば、疲労がたまって身体が辛いような時、5分か10分程度の仮眠をとると劇的にすっきりすることがある。

身体は物質だ。
物質は変化するのに時間がかかる。
辛いのが本当に身体なら、5分程度でそんな劇的に回復したりしないような気もする。

筋肉痛でどこかが痛い、というように実際に身体が辛いことも確かにあるが、意識が勝手に作り出している幻のような「疲れ」「辛さ」というのが、実際は結構あるのかもしれない。


疲れや痛みだけでなく、怒りや悲しみ、喜びなどの感情も、突き詰めていけば自分の心が半ば勝手に作り出しているものだ。
周囲で起こる出来事と、それを受けて自分が抱く感情の間に本来直接の因果関係はないのだが、心を制御できなければ、その時点で紐付けられている感情に半ば自動的に翻弄されるしかない。

外側から情報を受け取る仕事と受け取った情報を処理する仕事は、厳密には別のフェーズに分かれている。

その事が分かると、外側の世界で起こる出来事に必要以上に心を乱されることが減り、生きるのが少しずつ楽になってくるのだと思う。