瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

「抜苦与楽」

一年ほど前のことになるが、タイで修行をしておられるプラユキさんという僧侶の方にお目にかかったことがある。

 

私はヴィパッサナーを書籍で学び、初心者瞑想指導の会というのに一度だけ出席した後は、基本的に一人で瞑想修行を続けてきた。瞑想会や合宿のような場に出てみたいという気持ちはあるのだが、色々あって足を運ぶのがなかなか難しい。

まず、最寄りでそうした会が開かれている場所が、私の家から意外に遠い。
加えて、平日日中にフルタイムで働いた上に夜と土日は執筆にあけくれ、土日は息子の硬式野球チームの手伝いをするという生活で、自由な時間はあまりない。

結果、片道何時間もかけて瞑想会に参加するより、その時間を自宅での瞑想に費やした方が合理的ではなかろうか…というところに落ち着いてしまうのだ。

 

そういうわけでプラユキさんは、今のところ、私が対面で瞑想について真面目に会話させて頂いた唯一の方だといえる。

プラユキさんとお会いした際の話は過去のブログ記事に書いているが、その際にプラユキさんが何度も口にされていた「抜苦与楽(ばっくよらく)」という言葉が、最近になって頻繁に頭に浮かぶようになった。

 

当時の私はヴィパッサナー瞑想を、なんというか、「ものすごくストイックな修行の道」のように捉えていたのではないかと思う。そして、そういう「ストイックな瞑想」に取り組む自分を密かに誇らしく思うような、慢心に似た気持ちがどこかにあった。

だから、「瞑想は幸せになるためにやるのだから、あなたが幸せになっているならそれでオッケー。その上で人に幸せを与えてあげられればベストですよね」というプラユキさんのふんわり暖かい言葉を素敵だなと感じる一方で、
「でも、私が目指したいのはそういうことなんだろうか…?」
とでもいう、もやもやとした違和感を感じていたのではないかと思う。

 

あれから一年、自分の成長を自分自身で推し量ることはできないが、私の苦しみは確実に減った。かつて常時強火で燃え盛っていた怒りの炎はトロ火くらいに鎮火されていたが、加えて「自分を守ろう」という気持ちが薄れた結果、以前とは比べ物にならないほど楽に生きられるようになった。

そういう中で、プラユキさんが語ってくれた「抜苦与楽」という四文字の言葉が、以前とは違ったニュアンスをもって私の中に息づき始めているのかもしれない。

 

私がヴィパッサナーに取り組み始めたのは、身も心も焼き尽くすような激しい怒りと憎しみをなんとかしたいと願ったからだ。そして実際に苦しみが減ったので、今もヴィパッサナーを続けている。

 今進んでいる方向は、間違っていないだろうと思う。そして、この道を進み続けた遥か彼方に解脱の境地があることを、私は知識として知っている。
けれど、未だ体験したことのない幻の解脱を目指し、全てを投げうって一路修行に励もうという境地には、今の私は至っていない。

 

私には年老いた両親と未成年の3人の息子がいて、彼らを捨てて修行一筋に生きるということは到底考えられない。先の事は解らないが、当面は今のまま普通に生活し、生活の中でできる限りの瞑想修行を続けていくのだろう。

 

自ら選び取って作り上げてきた環境の中で、可能な限り苦しみを抜き、自他に楽を与えられるように生きる。そういう「修行」の形があってもよいのではないかと、今はそんな風に考えている。

 

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「良し悪し」という概念

私が初めてヴィパッサナーを知ったのは2011年頃の事なので、なんだかんだで6年近くヴィパッサナーに関わってきたことになる。

 
といっても、初めの数年はそれほど真剣に取り組んでいたわけではない。
当初の「瞑想」は「ラベリングをしていればとりあえず頭の中から思考を排除できて楽」という程度のごくゆるいもので、真剣に取り組み始めたのはここ2〜3年のことだと思う。
 
真剣に取り組もうと思い始めてからも、初めのうちは集中力を保つのが難しかった。
というより、今にして思えば瞑想の本質を取り違えていたのではないかと思う。その頃の私にとって瞑想とは、「観察という名の思考」になっていたような気がするからだ。
 
瞑想中に「気づき」という名の興味深い思考ができた日は「今日は瞑想がうまくいった」と思い、大した気づきが得られなかった日は「今日の瞑想はダメだった」と、そういう自己評価を無意識のうちに下していた。
 
 
ヴィパッサナーで何より大切なのは(と大威張りで語れるほど私はヴィパッサナーに詳しいわけではないのだが…)、まずはとにかく「考えない」ということなのではないかと思う。
何年も回り道をした挙句にようやく「考えないでいるとはどういうことか」の糸口を体感的に把握できたたいま、以前の自分の瞑想を振り返ってそんな風に感じている。
 
良し悪しというのは、つまるところ自分の中にある一種の概念だ。
だから、自分の瞑想に自分で良し悪しの評価をつけられている時点で、そもそもそれは瞑想の本質を外れている。
 
 
ヴィパッサナーは腹筋運動のようなもので、正しいやり方で黙ってやり続ければ、そのうち然るべき変化が現れてくるものだと思う。
腹筋を割るために必ずしも「腹筋が割れるメカニズム」を理解する必要がないのと同じで、瞑想がどのように進み、どのようなプロセスを辿って自分が変化していくのかという理論をあらかじめ把握しておく必要は特にないはずだ。
やるべきこととやってはいけないことだけを頭に叩き込んだら、あとは実践するだけでいい。
 
世の中には「理論的に納得してからでないと前に進めない」というタイプの人がいて(私もそうだ)、そういう人にとっては事前にある程度メカニズムを理解しておくのも有効なのかもしれないが、そうでない人にとっては、むしろ先入観は邪魔になることもあるような気がする。
 
優れた瞑想指導者が、瞑想の進み方を事細かく教えることなく「とりあえずやってみなさい」というのは、要するにそういうことなのではないかと思う。
 

Interconnected

今日は朝から「デジタルで相互接続された世界における新たなビジネスリスクについて」というテーマの記事を書いていたのだが、先ほど情報の収集と整理が一段落し、記事の構成にもおおむねメドが立ったので、どれ、いっちょ気分転換に瞑想をするか…と座る瞑想を始めた。

 

座り始めて数十分ほど経った頃だったか、部屋の片隅で、それまで静かにしていたコザクラインコが甲高い声で一声鳴き、その声を聴いた時、それまで凪いでいた心に直前までとは違ったさざ波が立った。

その瞬間、さっきまで読んでいた文書に何度も登場したinterconnected(相互接続)という単語とともに「あっ、『世界と自分は一つ』というのはそういうことか!」という思いが鮮烈に頭の中でスパークし、その鮮烈さに自分で驚いて思わず目を開けた。

 

ヴィパッサナーを通じて知った仏教的な考え方によれば、生きるとはそこに心があることだ。そして心とは何かといえば、それは感じる働きであるという。

「心」という名前の何か特別な器官があるわけでも、脳と心がイコールなのでもなく、目・耳・鼻・舌・身・意の六つの門から入ってくる情報を受け取り、認識し、解釈して回転していく流れが心。

 

今、私の心は耳から飛び込んできたコザクラインコの鳴き声をトリガとして動き出し、それまでとは違う形の波を立てた。驚いて目を開いたらインコと目が合い、今度はインコが私の視線に気づいて止まり木の上でそわそわと身体をゆすり始めた。

その様子を見て、私の心にまた別の波が現れた。

 

心の流れが生きるということであるのなら、外側から来て私の心を動かすものも、ある意味私の一部なのではないだろうか。そして同時に、私の存在が別の生命の心に対してなんらかの影響を与えるのだとしたら、私はその生命の一部でもあるはずだ。

 

「世界は一家人類は皆兄弟」と昔、笹川会長が言っていたし、似たようなフレーズはこれまでにも何度も耳にしてきたと思う。
けれど、その耳慣れたフレーズを、以前とはまったく異なるレベルの納得感をもって、今、私は反芻している。

 

瞑想がもたらす気づきというのは、見たことも聞いたこともないような神秘的なものが「観える」ということでは多分ないのだろう。

美しい写真も拡大すればドットの集まりに過ぎない、というように、それまで当たり前に見ていたものが別の倍率で見え始める…瞑想体験は人それぞれであるからこれはあくまでも私の主観だが、おそらくそういうことなのではないだろうかと、今、そんな風に感じている。

 

慈悲と変容

先日、駅の待合室で座っていたら、泥酔した男性が入室してきて、見えない誰かを大声で罵倒し始めた。街へ出ればよくあることで、そういう時は目を合わせないようにして無難にやり過ごすのが、いつもの私のやり方である。

その時も手にしたKindleに目を落として、彼の方へは目をやらないようにしていたのだが、驚いたのは「怖いな」「早くどこかへ行ってくれないかな」といった感情がうっすら浮かび上がりかけてきたその瞬間に、
「この人の怒りが早く収まり、穏やかにいられますように」
という慈悲の瞑想のフレーズが、反射的に心に浮かび上がってきたことだ。

何の自慢にもならないが、以前の私は見知らぬ泥酔者の安寧を念じるような殊勝な人間では絶対になかった。ここ数ヶ月、朝晩といわず、ふとできた隙間時間や嫌なことが起きた時などに呪文のように慈悲の瞑想のフレーズを唱えていたので、パブロフの犬的に条件反射が刷り込まれていたのかもしれない。

いずれにしてもそのおかげで、彼が室内で怒鳴り続けているしばしの間、私は不愉快な思いを味わうことなく過ごすことができた。

 

 ※※※

 

この話を書いたのは、「私は慈悲の瞑想によっていい人間に生まれ変わりましたよ」みたいなことを吹聴したいからではない。
人の性質というものは、適切なステップを踏みさえすれば、自分が思うよりも遥かに容易に書き変わってしまうということに、我ながら驚きを感じたからだ。

 

慈悲の瞑想をやり始めたばかりの頃は、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
というフレーズを唱えるたびに、「これは偽善ではないのか」とでもいうような座りの悪い感情が心の中に渦巻いていた。それは、言ってみれば「私のように身勝手な人間がこんなフレーズを唱えるなんて、なんと空々しいことだろうか…」と斜に構えるような気持ちである。

それでもとにかくやってみようと、半ばノルマのように唱え続けていて、ある時「あれっ」と思った。慈悲の瞑想をやり始める前に比べて、ずいぶん生きるのが楽になってきたことにハタと気づいたからだ。

考えてみれば、自分と他人の幸せを等しく念じるということは、「私は敵を作りません」という自分への宣言のようなものだ。心の中から敵がいなくなれば、生きやすくなるのは当然だろう。

 

私たちには、「いい人」となることを心のどこかで危ぶむ本能があるが、敵を作ることを放棄していわゆる「いい人」として生きる方が、実際はずっと「楽」で「安全」な生き方なのかもしれない。

 たとえば歩きたばこをしている人を見て不愉快な気持ちになるよりは、「この人が歩きたばこで事故を起こしませんように」と祈る方が”気持ちがいい”。列に割り込んでくる人を心の中で非難するよりも、「この人の心が穏やかでありますように」と念じた方が、確実に"自分の気分がいい"。

 

一見他者の幸せを念じているように見えて、慈悲の瞑想で真っ先に幸せになるのは、他でもない自分自身なのだ。

「自分の幸せ」を求めて生きるのは身勝手なことかもしれないが、そういう穏やかな幸福感を身をもって体験していくうちに、次第に本心から「生きとし生けるものの幸せ」を願えるように変容していくのではないかと思う。

 

闘いからの卒業

生きている中でなにが辛いかといって、自分で自分を守ろうと必死になることほど辛くて苦しいことはない。

 
たとえば仕事でなにか失敗をして上司にこっ酷く叱られたようなとき、辛いのは失敗した瞬間でも叱られている間でもなく、「失敗して叱られている惨めな自分」を受け入れることが出来ず、なんとかして対面を保てないかと必死になって頭の中で言い訳を探している時ではないだろうか。
 
 
自我が幻だと気づくことでなぜ救われるのかというと、それに気づけば、もはや必死に「自分」を守る必要がなくなるからではないかと思う。
 
 
うっかり失敗してしまったときは、迷惑をかけたことについて関係者にひとこと詫びて、あとは事態を納めるためにやるべきことをやればいい。それでもどうしても心が騒いでしまう時は、生きとし生けるものの幸せをひたすら念じてみるのも良いと思う。
 
 
防衛というのは静的な戦いだ。
そして、戦いというのは苦しいものなのだ。
 
自我という幻を手放し、慈悲によって自他を隔てる垣根を取り去る努力を続けることで、私たちは闘いから卒業することができるのではないかと思う。
 

生活の中での瞑想

ヴィパッサナーを始めるまで、瞑想とは静かな場所で目を閉じ、じっと座ってやるものというイメージを持っていた。

 
確かにそういう瞑想もあるが、ヴィパッサナーとは詰まるところあらゆることに気づいてゆく瞑想なので、その気になれば起きているあいだ中、ずっと瞑想モードでいることもできる。
 
たとえば朝、目覚める時などでも、眠りから覚醒していく様子やもう少し寝ていたいという意識、立ち上がる時の足腰の軋みなど、目覚めてから布団を出るまでの数分間にも気づきの対象は色々とある。
 
尾籠な話で恐縮だが、以前、ある僧侶の方が何かのインタビューに、「私はトイレに入る時でもサティを入れています」と答えておられるのを読んだことがある。
それ以来私は、用を足す際にも、つとめて身体と心の様子を観察するように心がけている。
 
 
動きながらやるヴィパッサナーに地道に取り組んでいると、自分の体が、いわゆる「意識」にコントロールされることなく勝手に動いていることが分かってくる。
 
私の場合、最初にそのことに気づいたのは自宅でシャワーを浴びていた時だった。
「顔をこすりたい、手を挙げる、顔をこする、お湯をかける、首をこすりたい、手を下ろす、首をこする、お湯をかける…」
と心と体の動きをひとつなぎにして観察していて、ある瞬間に「あれっ?」と思った。
首を洗った後に続けて左腕を擦ったのだけれど、「左腕をこすりたい」と意識で思う前に、すでに右腕が左腕の上を滑っていたのに気がついたからだ。
 
最近の研究によれば、脳は「なにかをやろう」という意識が現れる7秒前に、すでに何をやるのかを決めていると言われている。
私はそのことをNEWTONだか何かを読んでちらっと記憶していたのだが、その瞬間、なるほど、これがそういうことか!と、強烈な納得感を得た。
頭で知っていたことと実感が結びつく体験には、長年住み続けているわが家の壁に隠し扉を見つけるような、一種不思議な高揚感が伴うように思う。
 
 
「私」を動かしていたのは「私」ではなかった。
「私」というのは一つの揺るぎない存在ではなく、たとえていうなら脳に住む無数の小人の集合体で、多数決の結果決められたことだけが「私」と呼ばれる表層意識に手渡されている…
 
「私」はそのことを、自宅の風呂場の踊り場に素っ裸で立ち、頭にシャンプーの泡をこんもり載せた間抜けな姿で理解した。
 
いつ、どこで、どんな気づきが生まれてくるかわからない。
生活の中でのヴィパッサナーには、そんなスリリングな面白さが潜んでいると思うのである。
 

Twitter瞑想

長いことBlogの更新報告しか流していなかったTwitterを、最近またちょっと積極的に眺めるようになった。

ヴィパッサナー瞑想や初期仏教に関心のあるご同輩方と、Twitter上で緩やかな繋がりを持てたことがそのきっかけだ。
 
改めて使い始めてみて思ったのは、Twitterヴィパッサナー瞑想や八正道の修行に、案外役立つツールだということだ。
 
 
私は物を書く人間で、もともとSNSなどに何か投稿するのは割と好きな方である。放っておけば思いついたことを何でもかんでもツイートしたくなるのだが、そこを一旦踏みとどまって、ツイートしようとしている自分の心を観察する。
そして、「いまから呟こうとしていることは、果たして正語の定義から外れていないだろうか」ということを、ちょっと考えてみるのである。
 
食事をしながらする瞑想が食べる瞑想だとすれば、さしづめこれはTwitter瞑想とでも呼べばよいだろうか。
 
 
ただしこれには一つ問題があって、その瞬間の自分の心を冷静に観ると、その大半が慢心から出る無意味なおしゃべりに思えてしまうのだ。
私の心は、よほど分厚い無明の雲で覆われているらしい。
 
それで結局、10回のうち8回くらいはツイートしようとする気持ちが失せて、投稿フォームを閉じることになる。
 
 
ツイートするという行為や、ツイートされる言葉そのものには、善も不善もないだろう。肝心なのは、ツイートを流そうとするその瞬間の自分の心のあり方なのだ。
 
人に役立つ善い言葉をきれいな心で語れるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだが、独り坐して心を観るのとはまた違った修行の場を、Twitterは与えてくれる。