変化と共に居る
ヴィパッサナーと慈悲の心
このところ「他者の心の流れを観る」ということにチャレンジしている。
「観る」といっても他者の心が実際に読めたりするわけではないため、正確には「想像する」というのが近い。
「視覚が何かを捉え、捉えたことを認識し、認識したものを判断し、そこから何らかの感情が生まれる」…そういう、自分の心に生じる流れと同じことが自分以外の生命にも起きているのだと仮定して他者の姿を眺める、というようなことだ。
たとえば、会議中にAさんとBさんの意見が合わずに口論が始まる。
Aさんがなにか言いかけたのを畳みかけるようにしてBさんが反論をし、それをまたねじ伏せるようにしてAさんが言い返す。
その様子を眺めながら、
「今、Bさんの声が耳に触れた。触れた声を言葉として認識した。認識した言葉が解釈された。記憶の回路がその言葉を自分への攻撃とみなし、反撃の意思が生まれた」
…というように、Aさんの心の流れを想像してみるのである。
面白いことに、これを何度も繰り返していると、他人に対する怒りの気持ちが生まれにくくなってくる。
ヴィパッサナーを続けていると、「自分」というのはそれまで思っていたような確かな存在ではないことが感覚として分かってくるのだけれど、同じプロセスを他者にも適用することで、自分も他人も同じなのだということが理屈抜きで腑に落ちるのかもしれない。
「私」も「あなた」も「あの人」も、その時々の状態から機械的にはじき出されるアルゴリズムによって半ば強制的に動かされている操り人形に過ぎない――そういう風に見え方が変わると、他者に対して怒るのが馬鹿らしくなってくる。
なぜならそれは、パッティングマシーンの前に仁王立ちして飛んでくる球に怒鳴り返すようなことでもあるからだ。
誰もが得体のしれない「自分」から、問答無用で押し付けられる感情に翻弄されて生きている…そう考えると、同じワンマン上司の下で苦労する同僚を見るような共感を伴った慈悲の気持ちが生まれてくるのは興味深いことだ。
それは、かつての私が慈悲の瞑想のフレーズを唱えて半ば無理やり自分に植え付けていた、かりそめの慈悲の気持ちとは根本的に性質が異なるものだ。
そこには一般に「愛」という言葉で表されるような優しさや温かさはない。
「やれやれ、困ったことですなぁ」
と苦笑いしながら並んで茶を啜るご隠居の淡い友情のような、どこか枯れた感情として、今の私には映っている。
因果を観る
私は根っからの仕事人間で、暇でブラブラしているよりは仕事をしていた方が気分がいい。
凪いだ心
つい最近、私の身辺にとんでもない出来事が勃発した。
このような場で嬉々として語るような話ではないため詳細は伏せるが、これがドラマなら私の立場にあるキャストは泣きわめき、自分の境遇を呪い、世をはかなんで出家でも考えかねないようなゴツいやつだ。
5年前の私だったら、心身をやられて神経外科の門をくぐっていたかもしれない。
ところが、今現在の私は、自分でもびっくりするほど心が凪いでいる。
厳密にいえば不安や悲しみなどの不快な感情がまったく生じないわけではないのだけれど、そうした感情は生じたそばからほろほろと消えていってしまう。
その様子を観察すると、起きているのはどうやらこういうことだ。
まず、何か不愉快な感情が姿を現した時に、割と早めにそれに気づくことができるようになった。くわえて、気づく事によって感情のループに取り込まれることなく、それを一歩外側から眺められるようになった。
そして、たぶんこれが一番大きいと思うのだけれど、そういう感情は「私」が自分で生み出しているのではなく、脳の回路が半ば勝手に生成しているのだ、という風に考えられるようになったことで、その感情に執着する気持ちが薄くなった。
「私が苦しんでいるのだから苦しいに決まっている」
という感覚が弱まり、
「押し付けられた感情に翻弄されるのは馬鹿らしい」
と思えるようになった。
また、生まれた感情は放っておけば必ずいずれ消えて無くなるということを体験を通して理解できたことで、仮に感情に流されかけても「そのうち消える」と自分を落ち着かせて、その状態を冷静に見ていられるようになった。
いまここで私が悩もうが苦しもうが、起こることは起こるし起こらないことは起らない。ならば、既に過ぎてしまった過去やまだ訪れてもいない未来に心を飛ばして悩み苦しむのは馬鹿らしい。
問題が起きたらどう対処すべきかをフラットな気持ちで考え、その都度やるべきことをやる。
その際、自分を守ろうと思うと苦しみが増えることも分かったので、第三者的な視点で事態を見て「この状況で誰もが取るであろう最良の方法は何か」と考えるように心がける。
起きたことは好ましくないことでも、それに対して自分は冷静にやるべきことをやっているのだという自己イメージは、更なる苦しみの発生を押しとどめてくれる。
外から見てどんなに惨めで辛そうな状況下にあっても、心さえ凪いでいれば人は決して不幸ではない。そのことを改めて実感している。
これを書いたのは、苦しい状況にある自分を鼓舞するための強がりからでも、そのような境地に達したことをひけらかしたいからでもない。
ほんの数年前の私は、四六時中怒りと不安に心を焼かれていつも苦しい思いをしていたのだけれど、そんな私でも、地道にヴィパッサナーに取り組んできて、こういう境地にたどり着けた。
だから、今、色々なことで苦しみながら壁を超えられずにいる人たちも、「苦しみは必ず消せる」と信じて進んで欲しい、そんなようなことを誰にともなく伝えたかったからだ。
私は本来、修業半ばにある分際で人に物を教えることには抵抗を覚える方だ。
でも、たとえ誰から非難されようともこれだけは書いておきたい、これを書かなければこんな日記を書いている意味はないのではないか…そんな風に思いながら、いま、これをしたためている。
呼吸の中の輪廻
ヴィパッサナーの座る瞑想では、第一に呼吸を観察する。
観察の仕方にはいくつか流儀があるようだが、私がやっている方法では、呼吸によって膨らんだりへこんだりする腹部が最初の観察対象になる。
腹部は息を吸うと膨らみ、息を吐くとへこむ。その動きを、「膨らんでいる、へこんでいる…」と心の目で見る(感じる)。
始めのうちは膨らんだりへこんだりという動きだけを観察するので、たいして面白くはない。そこを、
「これも修行ぢゃ…」
と我慢して続けていると、だんだんと「動き」以外のものが心の目(意識)に入ってくるようになる。
瞑想が進むプロセスは人それぞれだろうから、これはあくまでも私の場合の話だが、動きの次は動きに連れて伸びたり縮んだりする腹部の皮膚の感覚、その次はそうした感覚が引き起こす心の変化が意識にのぼるようになった。
ここ数日は、そういう心の変化が何をきっかけにして起こり、どうやって消えていき、消えたあとにどうなるか…というのをもっぱら観察しつづけていたのだが、今日は心の変化自体ではなく私に呼吸をさせる「意思」のようなものが意識にのぼってきたので、それをずっと眺めていた。
腹部を膨らませる――つまり息を吸う動作を起こしているのは、「息を吸いたい」という私の意思だ。「息を吸いたい」という意思が生まれると同時に呼吸する動きが開始する。
その意志は息を吸い続けている間持続し、吸い切ったところでフッと消える。消えた瞬間「息苦しい」という感情が生まれ、生まれた苦しみがこんどは「息を吐きたい」という意思を生む。その意思は息を吐ききるまで続き、吐ききったところでまた苦しみが生まれる…
それが、ひたすら、延々と繰り返されていく。
止まらないし、止められない。
ある状態は必ず生まれて消えていくが、消えるというのは表現上の方便で、実際は別のものに姿を変えてまた次の状態を起動する。
なるほど、これが輪廻かと、その果てしない繰り返しを感じながら思った。
業(カルマ)や輪廻といった言葉はともすればオカルトめいた印象を与えることがあるが、その実態は、中学の理科の授業で習ったエネルギー保存の法則のようなものなのかもしれない。
私という系の中でエネルギーは次々に姿を変えながら回り続け、その私も、私を含む環境の中で一つのエネルギーとして回り続ける。
このフラクタルな世界のあらゆるところで、同じような回転が様々な粒度で起こり続け、全人類が苦をトリガとして生きている…そのイメージには、人を絶対的な孤独感から救う力があるような気がする。