マナーと怒り
周囲の人に不快な思いをさせないように心がけるのは大切な事だ。
だから、それを広く啓蒙することにも何かしら意義はあるのだろうけれど、私自身は、そばで誰が何をしていようとそれに動じない心が欲しい。
何を好み、何を不快に感じるかは人によってまちまちで、周囲の人全てを不快にさせないよう振る舞うのは難しい。
それ故に私たちは「マナー」という共通の指針を作り、最大公約数的な平和を目指すのだけれど、マナーという大義名分のもとに人を批判し始めると、そこに新たな苦しみがあらわれる。
人を批判する気持ちは、姿を変えた怒りなのではないかと思う。どちらも眉間に何か重いものをわだかまらせ、孫悟空の輪のように頭を締め付ける感覚を連れてくる。
それは明らかな「苦」のはずなのに、批判の心は「私は正しい」という旗印を掲げて現れるので、激しい怒りに比べると気付くのも抑えるのも難しい。
「私は正しい」というある種の高揚感の陰に隠れて、その毒はゆっくりと身体にまわる。
本当は「怒ってはいけない」のではなく「怒るのは馬鹿らしい」のであり、「人を批判すべきではない」のではなく、「批判しないほうがラク」なのだ。
マナーは自分を律するためにこそ活用し、人を裁くための基準にしない。そうやって、凪いだ心を保ちながら生きていけるようになりたいなと思う。
フィルタ越しの真実
タイムラインの自我
心のからくり
外側と内側
心の流れを慎重に観察しつづけていると、外側から受ける刺激と、それによって内側に生まれる感情とが別のものだということが徐々に分かるようになってくる。
それはたとえば、電車の中で電話している人を見て不愉快な気持ちになった…という時に、「電話をかけている人を見た」ことと「それを受けて不愉快に思った」ことが不可分なひとつながりのものではなく、別々のタイミングで生じる独立した感覚だと分かる、というようなことだ。
「大声で電話をかけている人がいて不愉快になった」という一つのできごとに見えていたものが、実は刺激と反応という二つの要素から成り立っていたのだと気づく。
私がそのことにはじめて気づいたのは、自宅の台所でシンク台の角にしたたかに足の小指をぶつけた時だった。指がぶつかり、痛みが生じ、
「なぜこんなところにシンクがあるのよ!」
と身勝手な怒りが生まれるまでの流れが他人事のように見えたそのとき、
「いま、怒りが生じたのは指やシンクや痛みのせいではない。私の脳の回路が勝手に反応して怒りを作り出したのだ」
ということに思い至った。
それ以来私は、以前ほど周囲で起こる物事に動じなくなったのではないかと思う。
悩みも苦しみも喜びも、結局は自分の感情が作り出すものだ。
感情は外側から問答無用で押し付けられるものではなく、自分の中から生じてくる。そして、自分の中にあるものは、その気になれば自分でコントロールすることができる。
だとしたら、外側で起きることをむやみに恐れたり憂えたりする必要があるだろうか。
渋滞にはまって3時間足止めを食らおうが、隣席の若者のヘッドフォンから音漏れしていようが、会社の資金繰りが悪化して給料日が半月ずれこもうが、必ずしも不愉快な気分になる必要はない。
問題には都度対処すればよいわけで、自らそこに怒りや不安などのオプションを追加して苦しみを増やすのは馬鹿らしい。
現時点では全てに対してそこまで達観できているわけではないのだけれど、この気づきは私を見えない鎖から解き放ってくれた。
外側の世界が敵なのではなく、世界と戦おうとする自分の心が敵なのだと知ることで、人はずいぶん自由に近づけるのではないかと思う。
3.99Kmの瞑想
ちょっと思うところがあって、ここ3週間ほど帰宅後に一時間ほど歩いている。
息子たちがいれば一緒に歩き、誰もいなければ一人もくもくと歩く。
息子ととりとめもないおしゃべりをしながら歩くのも楽しいが、一人ならひとりで、ゆっくり歩く瞑想に取り組むチャンスになる。速足で一時間歩くのは四十路の体にはそれなりにキツいが、その時々にあわせてその時々なりの楽しみがある。
今日は次男が留守だったので、中学2年生の三男と二人で歩いた。
背中に唯我独尊の次男とは違い、三男は見た目も中身もお地蔵さんのようなおっとりした人で、私が語る脳や遺伝子や進化の話などにも割と関心を示してくれる。
並んで歩きながら、ふと思いついて、
「ねぇ、歩く瞑想のやり方を教えてあげようか」
と水を向けてみた。私は人に物を教えることにうしろめたさを感じるタイプだが、相手がわが子ならまぁいいのではないかな、と思う。
「歩く瞑想?」
「うん。瞑想にも色々あって、じっと座ってやるだけじゃなく、歩きながらやるタイプがある」
「面白そう、教えてー」
と、丸い目に好奇心を浮かべた三男に、歩く瞑想の基本的なやり方を説明する。
左足を上げる、運ぶ、下す、右足を上げる、運ぶ、下す…というのを観察しながら歩き、意識が足から離れたら、「離れた」と気づいてもう一度足に戻る。
「…それをひたすら続けながら歩くだけ。簡単でしょう?」
「うん、やってみるわ」
と口をつぐんで歩き出した彼に並んで、しばし二人でもくもくと歩く。
「…やってる?」
「うん、やってる。でも、これってなんの役に立つの?」
「そうだねぇ…」
と一瞬言葉を切って、瞑想の効果を彼にどう伝えるべきかを考える。
まだ若いこの人にイキナリ無常だ、無我だといういう話をしてもおそらくあまりアピールしないだろうし、上手く伝えられる自信もない。
「色々あるけど、さしあたってはセルフコントロールがうまくなると思う。
あなたは優しくて正直ないい子だけど、心が敏感で人の言動に傷つきやすいでしょう。地道に瞑想を続けると、人から何か言われて怒ったり、落ち込んだり、泣いたりするということが、徐々に減っていくんじゃないかな」
「へぇー、そうなの?なんで?」
「正確な理論はわかんないけど、手足の動きを観察すると、脳の帯状回というところに作用するみたい。帯状回は自己抑制に関係が深いと言われているから、足の動きを観察することで、そこが鍛えられるのかもね」
「おおー、なるほど!」
三男が関心を示してくれるのに気をよくして、瞑想の話を続ける。
「それから、何も考えずに足の動きだけを観察しようと思っても、ふと気が付くと頭は勝手に別の事を考えているでしょう?」
「うん、学校の事とか考えちゃった」
「そうなったら、『おっと、いかんいかん』という感じでまた足に意識を戻す。また気がそれる、また戻す…これを何度も繰り返すのが、自分の意識を自分で制御するトレーニングにもなるんだと思う。
自分の足の動きを観察することで自分を客観的に見る訓練をして、意識を足にひき戻し続けることで、自分の意識をコントロールする訓練をする。この二本立てでやっていくと、怒ったり悩んだりしている自分に気づき、気づいたらそこから気持ちを離す、ということができるようになってくるよ」
「なるほどー。確かに、お母さん、昔みたいにキーキー怒らなくなったもんね(笑)」
「えー、そんなにキーキー言ってたかな(笑)」
ひとしきりお喋りしたあと、どちらからともなく口をつぐみ、また並んでもくもくと歩き始めた。
隣から、三男がさくさくと地面を踏む音が、遠く近く聞こえてくる。
左足上げる、運ぶ、下す、音、音、
右足上げる、運ぶ、下す、音、音、音…
わが子と並んで歩く瞑想をする時間を愛しいものだと感じるこの気持ちも、究極的には苦を生むものなのだろう。意識の表面にふと浮かびあがったそんな思いを他人事のように眺めながら、私もさくさくと地面を鳴らしながら歩き続けた。
ゆでたまご
朝食にはゆで卵を食べることが多い。
卵はどちらかといえば固ゆでが好みで、水から入れて強火で15分ほどゆで上げる。
その日も卵と水を鍋に入れて強火にかけ、タイマーを15分にセットしてスタートボタンを押そうとしたところで、
「そういえば、なぜ私は強火で15分ゆでると固ゆでになることを知っているんだろうか?」
とふと思った。
知っていた理由は、おそらく以前何かで読んだか、人から聞いたかしたからだ。それで実際に15分茹でてみて固ゆでになることを確認し、以後はゆで時間に悩むことなく、タイマーに15とセットし続けている。
これは、真理と知識と瞑想の関係にちょっと似ているのかもしれない…と、いい具合に茹で上がった卵を食べながらふと思った。
15分茹でると卵が固ゆでになることを、私のように知識として外から仕入れて知る人もいれば、何度か実際に卵をゆでてみてちょうどよいゆで時間を発見する人もいるだろう。
どちらの方法で理解しようとも、卵はちゃんと固ゆでに茹で上がる。
本を読んで学ぶよりも身を以て学ぶ方が、鮮烈な体験になるという事は確かにある。そして、体験が鮮烈であればあるほど、既存の思考パターンを書き換える力が強いのは確かなことだと思う。
けれど、卵の茹で時間を知るために必ずしも何度もの失敗を経て体験から学ぶ必要はおそらくないだろう。先人の知恵が既にそこにあるなら、それを活用した方が効率が良いこともある。
私は本も読むし瞑想もする。
本から何かに気づくこともあれば、瞑想中に何かを発見することもあるし、外から仕入れたいくつかの知識が素材となって脳内発酵し、瞑想モードの時にいわゆる「智慧」として現れることもあるかもしれない。
どんなルートであらわれようと、その気づきが生きることを楽にしてくれるのであればそれでいい。
今のところは、とりあえずそんな風に考えている。