瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

マナーと怒り

周囲の人に不快な思いをさせないように心がけるのは大切な事だ。

だから、それを広く啓蒙することにも何かしら意義はあるのだろうけれど、私自身は、そばで誰が何をしていようとそれに動じない心が欲しい。

 

何を好み、何を不快に感じるかは人によってまちまちで、周囲の人全てを不快にさせないよう振る舞うのは難しい。
それ故に私たちは「マナー」という共通の指針を作り、最大公約数的な平和を目指すのだけれど、マナーという大義名分のもとに人を批判し始めると、そこに新たな苦しみがあらわれる。

 

人を批判する気持ちは、姿を変えた怒りなのではないかと思う。どちらも眉間に何か重いものをわだかまらせ、孫悟空の輪のように頭を締め付ける感覚を連れてくる。

それは明らかな「苦」のはずなのに、批判の心は「私は正しい」という旗印を掲げて現れるので、激しい怒りに比べると気付くのも抑えるのも難しい。

「私は正しい」というある種の高揚感の陰に隠れて、その毒はゆっくりと身体にまわる。


本当は「怒ってはいけない」のではなく「怒るのは馬鹿らしい」のであり、「人を批判すべきではない」のではなく、「批判しないほうがラク」なのだ。


マナーは自分を律するためにこそ活用し、人を裁くための基準にしない。そうやって、凪いだ心を保ちながら生きていけるようになりたいなと思う。


フィルタ越しの真実

ヴィパッサナーで座る瞑想をする時に、呼吸によって膨らんだり凹んだりするお腹の動きを観察する。

座り始めは、「自分の一部に腹がある」という感覚があるのだが、時折、腹の膨らみ、凹みが風船のように膨らんでいき、腹の中…というか、腹の膨らみ凹みの中に自分がいる、という錯覚に襲われることがある。

そういう時、私にとっての世界は、結局自分の心が作り出しているものなのだということをあらためて感じる。


この世界を統べる物理的な法則では、私の腹の中に私がいるなどということはあり得ない。
けれど、瞑想中に味わうそうした感覚は言いようもなくリアルで、その瞬間の私にとっては、それこそが「ありのままの事実」なのである。

そういうことが、おそらくこの世界の至る所で起こっているのではないかと思う。
私が「赤」だと思っている色が、他の人にとっても同じ赤に見えているかどうかわからない。
私に感動を与える言葉が、他の人をも同じように感動させるとは限らない。
もしかすると、瞑想中だけでなく、常に腹の中に自分がいるような感覚で生きている人もいるのかもしれない。


物理的な世界と、それを統べる法則は、確かにそこにあるのだろう。
けれど、私たちは瞬間ごとに移ろう「私」という不確かなフィルタを通してしかその世界を観ることはできない。次々に形を変えるいびつなフィルタ越しに見た世界が、私たちにとっての「真実」だ。

ヴィパッサナーによってこのフィルタの形はある程度明らかになるけれど、フィルタ自体が絶え間なく変化するので、結局は何も捉えることができない。

そういう虚しい試みの繰り返しからも、人は無常ということに気づくのかもしれない。


ヴィパッサナーは私から、物欲や金銭欲、人間関係への執着といった様々な苦しみを取り除いてくれつつあるが、明らかな悩みや苦しみを感じていない時にも、心の底に正体不明の失望感が泥のようにわだかまっている。

それはおそらく、無常の真理を未だ本心からは受け入れられずにいる私の中の何かが、必死の抵抗を試みているからなのだろう。

タイムラインの自我

ブッダは「自我は幻である」とを説かれたそうだが、最近は脳を研究する学者の間でも、同じようなことが言われ始めているらしい。

fRMIのようなツールが登場したことで、脳のどの部分がどんな心の働きに関係しているのかを視覚的に把握できるようになり、たとえば怒っているときは脳のこのへん、好きな人のことを思い出しているときはあの辺が活性化する、といったことが明らかにされつつある。
しかし、そのような手法をもってしても、自我、すなわち我々が「意識」と呼んでいるものの座が「どこ」にあるかは解明できていないという。

最近読んだ数冊の本の内容を総合すると、意識というのは、脳内で起こる葛藤を一つにまとめ上げる過程で生まれてくるのではなかろうか、という考え方が、最近では主流となりつつあるようだ。

脳の中には無数の小人が住んでいて(比喩である)、外からなにかしら刺激を受けると、その小人たちがどう反応すべきかを個々に主張する。
たとえば美味しそうなケーキを目の前にして、あるものは「食べたい!食べるべきだ」と主張し、あるものは「いや、太るからやめよう」と主張する。身体は一つしかないため、対立を経て最終的にはどれか一つの主張が採用されることになるが、その過程で、我々が「意識」と呼んでいるものが浮かび上がってくる。

以前、瞑想中に雑多な意識のかけらのようなものが猛スピードで出たり消えたりするイメージを見て、「なるほど、私が『私』だと信じていたものの正体はこれか」と愕然としたことがあるが、それはもしかするとこういうことだったのかもしれないなと思う。

※※※

Twitterでたくさんの人をフォローしてタイムラインを眺めていると、これと同じような様子をそこに見いだすことができる。

数千人のTwitterrer(といってもアクティブに発言しているのはそのうちのごく一部だろうけれど…)は、普段はそれぞれが思い思いに色々な事を呟いているが、ひとたび何かが起こると、まるで何かに導かれるかのようにして急速にある一つの状態へと収束していくような動きが現れる。

たとえばどこかで地震が起きると、何人かが瞬時に「揺れた!」とツイートする。それを受けて、「あ、ホントだ揺れてる!」「うちは揺れてないよー」「◯◯地方だけか?」というようなツイートが流れ、最終的に誰かが確かなニュースソースから速報などをリツイートする。

その流れは特定の「誰か」がコントロールしているわけではなく、ただ自然にそのように動いていくのだが、それを外から眺めていると、あたかもタイムラインが一つの意思を持って動いているかのように見える。
「自我は幻である」という一つの真理は、そんなところにもチラリとその姿をあらわす。

真理とは、誰かがあえて語るまでもなくただ厳然としてそこにある法則のことをいうのかもしれない。
そういうものに、自分という最も身近な媒体を通して近づいていく…ヴィパッサナーとは要するに、そういう「修業」なのだろうなとあらためて思う。

心のからくり

瞑想に真面目に取り組むようになってから距離を置いていた音楽に、最近、また少しずつ親しみ始めている。

距離を置こうと思ったのは、音楽に引きずられる感覚を疎ましく感じたからで、また聴いてもいいかなと思ったのは、引きずられそうになる心を引き戻して留めおくことができるようになってきたからだ。

聴いている音楽は以前と同じだが、音楽の楽しみ方は随分変わったと思う。
以前は音の流れに浸り、音と同化して恍惚となるのが音楽を聴く目的だった。今は音楽そのものより、音の流れによって変わる自分の様子を見るのが面白い。

好きな歌の前奏が始まる時の何かを期待するような気持ち、サビの部分が近づくにつれて急速に湧き上がる高揚感、曲が終わりに近づくにつれて現れてくるかすかな寂寥感…そういうものがどこから現れてどういうルートで体を巡り、どのような感情にたどり着くのか、眺めていると、それまで知らなかった自分の仕組みが見えてくる。

なぜ、いつも同じコード進行の曲に心を惹かれてしまうのか、好きなフレーズを聴いている時とそうでない時に、自分の心がどう振る舞うのか、そういうからくりが少しずつ暴かれていく。


執着を捨てるための早道は、対象に執着する心のからくりを見抜くことなのではないだろうか。なぜそれに執着してしまうかを種明かしされると、執着心はスッと冷めてゆく。

執着を手放すということは対象に特別な価値を置かないということで、それは対象を嫌悪することとは違う。
異性を糞袋と見て嫌悪するのではなく、異性に心惹かれる自分の心のからくりを見抜き、最終的には両者に等しい価値を置く…この先も様々なものに囲まれてなお心穏やかに生きていくために、そういう姿勢で世界と対峙していけたらよいなと思う。


外側と内側

心の流れを慎重に観察しつづけていると、外側から受ける刺激と、それによって内側に生まれる感情とが別のものだということが徐々に分かるようになってくる。

それはたとえば、電車の中で電話している人を見て不愉快な気持ちになった…という時に、「電話をかけている人を見た」ことと「それを受けて不愉快に思った」ことが不可分なひとつながりのものではなく、別々のタイミングで生じる独立した感覚だと分かる、というようなことだ。
「大声で電話をかけている人がいて不愉快になった」という一つのできごとに見えていたものが、実は刺激と反応という二つの要素から成り立っていたのだと気づく。

 

私がそのことにはじめて気づいたのは、自宅の台所でシンク台の角にしたたかに足の小指をぶつけた時だった。指がぶつかり、痛みが生じ、
「なぜこんなところにシンクがあるのよ!」
と身勝手な怒りが生まれるまでの流れが他人事のように見えたそのとき、
「いま、怒りが生じたのは指やシンクや痛みのせいではない。私の脳の回路が勝手に反応して怒りを作り出したのだ」
ということに思い至った。

それ以来私は、以前ほど周囲で起こる物事に動じなくなったのではないかと思う。

 

悩みも苦しみも喜びも、結局は自分の感情が作り出すものだ。
感情は外側から問答無用で押し付けられるものではなく、自分の中から生じてくる。そして、自分の中にあるものは、その気になれば自分でコントロールすることができる。

だとしたら、外側で起きることをむやみに恐れたり憂えたりする必要があるだろうか

 

渋滞にはまって3時間足止めを食らおうが、隣席の若者のヘッドフォンから音漏れしていようが、会社の資金繰りが悪化して給料日が半月ずれこもうが、必ずしも不愉快な気分になる必要はない。


問題には都度対処すればよいわけで、自らそこに怒りや不安などのオプションを追加して苦しみを増やすのは馬鹿らしい。

 

現時点では全てに対してそこまで達観できているわけではないのだけれど、この気づきは私を見えない鎖から解き放ってくれた。

外側の世界が敵なのではなく、世界と戦おうとする自分の心が敵なのだと知ることで、人はずいぶん自由に近づけるのではないかと思う。

 

 

3.99Kmの瞑想

ちょっと思うところがあって、ここ3週間ほど帰宅後に一時間ほど歩いている。
息子たちがいれば一緒に歩き、誰もいなければ一人もくもくと歩く。

息子ととりとめもないおしゃべりをしながら歩くのも楽しいが、一人ならひとりで、ゆっくり歩く瞑想に取り組むチャンスになる。速足で一時間歩くのは四十路の体にはそれなりにキツいが、その時々にあわせてその時々なりの楽しみがある。

 

今日は次男が留守だったので、中学2年生の三男と二人で歩いた。
背中に唯我独尊の次男とは違い、三男は見た目も中身もお地蔵さんのようなおっとりした人で、私が語る脳や遺伝子や進化の話などにも割と関心を示してくれる。

 

並んで歩きながら、ふと思いついて、
「ねぇ、歩く瞑想のやり方を教えてあげようか」
と水を向けてみた。私は人に物を教えることにうしろめたさを感じるタイプだが、相手がわが子ならまぁいいのではないかな、と思う。

「歩く瞑想?」
「うん。瞑想にも色々あって、じっと座ってやるだけじゃなく、歩きながらやるタイプがある」
「面白そう、教えてー」
と、丸い目に好奇心を浮かべた三男に、歩く瞑想の基本的なやり方を説明する。
左足を上げる、運ぶ、下す、右足を上げる、運ぶ、下す…というのを観察しながら歩き、意識が足から離れたら、「離れた」と気づいてもう一度足に戻る。

「…それをひたすら続けながら歩くだけ。簡単でしょう?」
「うん、やってみるわ」

と口をつぐんで歩き出した彼に並んで、しばし二人でもくもくと歩く。

 

「…やってる?」
「うん、やってる。でも、これってなんの役に立つの?」
「そうだねぇ…」

と一瞬言葉を切って、瞑想の効果を彼にどう伝えるべきかを考える。
まだ若いこの人にイキナリ無常だ、無我だといういう話をしてもおそらくあまりアピールしないだろうし、上手く伝えられる自信もない。

「色々あるけど、さしあたってはセルフコントロールがうまくなると思う。
あなたは優しくて正直ないい子だけど、心が敏感で人の言動に傷つきやすいでしょう。地道に瞑想を続けると、人から何か言われて怒ったり、落ち込んだり、泣いたりするということが、徐々に減っていくんじゃないかな」
「へぇー、そうなの?なんで?」
「正確な理論はわかんないけど、手足の動きを観察すると、脳の帯状回というところに作用するみたい。帯状回は自己抑制に関係が深いと言われているから、足の動きを観察することで、そこが鍛えられるのかもね」
「おおー、なるほど!」

三男が関心を示してくれるのに気をよくして、瞑想の話を続ける。
「それから、何も考えずに足の動きだけを観察しようと思っても、ふと気が付くと頭は勝手に別の事を考えているでしょう?」

「うん、学校の事とか考えちゃった」
「そうなったら、『おっと、いかんいかん』という感じでまた足に意識を戻す。また気がそれる、また戻す…これを何度も繰り返すのが、自分の意識を自分で制御するトレーニングにもなるんだと思う。
自分の足の動きを観察することで自分を客観的に見る訓練をして、意識を足にひき戻し続けることで、自分の意識をコントロールする訓練をする。この二本立てでやっていくと、怒ったり悩んだりしている自分に気づき、気づいたらそこから気持ちを離す、ということができるようになってくるよ」
「なるほどー。確かに、お母さん、昔みたいにキーキー怒らなくなったもんね(笑)」
「えー、そんなにキーキー言ってたかな(笑)」

 

ひとしきりお喋りしたあと、どちらからともなく口をつぐみ、また並んでもくもくと歩き始めた。

隣から、三男がさくさくと地面を踏む音が、遠く近く聞こえてくる。

左足上げる、運ぶ、下す、音、音、
右足上げる、運ぶ、下す、音、音、音…

わが子と並んで歩く瞑想をする時間を愛しいものだと感じるこの気持ちも、究極的には苦を生むものなのだろう。意識の表面にふと浮かびあがったそんな思いを他人事のように眺めながら、私もさくさくと地面を鳴らしながら歩き続けた。

 

ゆでたまご

朝食にはゆで卵を食べることが多い。
卵はどちらかといえば固ゆでが好みで、水から入れて強火で15分ほどゆで上げる。


その日も卵と水を鍋に入れて強火にかけ、タイマーを15分にセットしてスタートボタンを押そうとしたところで、
「そういえば、なぜ私は強火で15分ゆでると固ゆでになることを知っているんだろうか?」
とふと思った。


知っていた理由は、おそらく以前何かで読んだか、人から聞いたかしたからだ。それで実際に15分茹でてみて固ゆでになることを確認し、以後はゆで時間に悩むことなく、タイマーに15とセットし続けている。

 

これは、真理と知識と瞑想の関係にちょっと似ているのかもしれない…と、いい具合に茹で上がった卵を食べながらふと思った。


15分茹でると卵が固ゆでになることを、私のように知識として外から仕入れて知る人もいれば、何度か実際に卵をゆでてみてちょうどよいゆで時間を発見する人もいるだろう。

どちらの方法で理解しようとも、卵はちゃんと固ゆでに茹で上がる。


本を読んで学ぶよりも身を以て学ぶ方が、鮮烈な体験になるという事は確かにある。そして、体験が鮮烈であればあるほど、既存の思考パターンを書き換える力が強いのは確かなことだと思う。

けれど、卵の茹で時間を知るために必ずしも何度もの失敗を経て体験から学ぶ必要はおそらくないだろう。先人の知恵が既にそこにあるなら、それを活用した方が効率が良いこともある。


私は本も読むし瞑想もする。

本から何かに気づくこともあれば、瞑想中に何かを発見することもあるし、外から仕入れたいくつかの知識が素材となって脳内発酵し、瞑想モードの時にいわゆる「智慧」として現れることもあるかもしれない。


どんなルートであらわれようと、その気づきが生きることを楽にしてくれるのであればそれでいい。

今のところは、とりあえずそんな風に考えている。