瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

連想ゲーム

バスなどを待つ間に手持ち無沙汰な時間ができると、連想ゲームをすることがある。

連想ゲームといっても「りんごは赤い、赤いはポスト」…というあの遊びとは少し違って、ふと意識に上ったものから連なるように出てくる記憶や感情の流れを観察するようなことだ。
普通にしていると、周囲から絶え間なくなんらかの刺激が送られてくる。それらを捉え、そこから数珠繋ぎに生まれてくるものを観る。

この遊びをしていると、人は自分が思っているよりもはるかに沢山のことを記憶しているのだな、と驚かされる。
赤信号を見て小学生時代の登校シーンを思い出したり、煙の匂いを嗅いで、何年も前のバーベキュー大会の時の友人の姿が、服装から表情まで鮮やかに浮かび上がったりする。

浮かび上がった記憶がトリガとなってまた別の記憶が想起され、最終的にはなにがしかの感情が呼び起こされる。
そういう様子をぼんやり眺めていると、その時点における自分の脳の回路図の断片を見せられているような気持ちになる。

同じものを見ても、その時々で浮かび上がるものは違う。そういう刻一刻と書きかわるファジーな地図情報だけを拠り所にして、「私」というシステムが動いている。
だとしたら、自分の信念や主張、感情などに固執することに意味はあるのだろうか。
「私」というものの形を頑なに保とうとする意志は、本当に必要なものなのだろうかーー。

空き時間に出来る他愛ない遊びの中にも、世界の仕組みについて考えるためのちょっとしたヒントが散りばめられている、と思う。