自己主張という屁
自分の意見を主張するのは、放屁によく似ていると思う。
「我がものと 思えば愛し 屁の臭い」
という川柳もあるように、自分の主張は自分にとって好ましいものだし、言いたいことを言えば思い切り屁を放った直後と同じようにとてもスッキリする。
しかし、主張を聞かされる他人が自分と同じ気持ちを共有してくれるかどうかはわからない。
というか、他人の屁を無理やり嗅がされて喜ぶ人がいないのと同様に、たいていの場合は本人が思うほど喜ばれないのが普通だろう。
稀に麝香猫の性腺のような芳しい屁を放つ人がいて、そういう場合は大勢の人がその屁の臭いに魅せられる事もある。
自分の主張を高々と掲げて「私の言うことを聞け」と人に押し付けるのは、人様の顔の前でおもむろに放屁しておいて、
「どうです、いい匂いでしょう」
と悦に入るようなものだろうし、言いたいことを言い散らした挙句に「嫌なら聞くな」と開き直るのは、エレベーターの中で屁を放っておいて「嫌なら嗅ぐな」というようなことだろう。
誰もが自分の屁を愛おしみ、「ぜひこれを嗅いでください」「この匂いの良さを分かってください」と一生懸命になっている。
そんな風に考えると、主張の違いで人と争うことがなんだか馬鹿らしくなってくる。
無理やり主張を押し付けてくる強引な人も、どこか可愛らしく思えてきたりする。
他人の屁を嗅ぎたがる人などいないし、嗅がせたところで自分と同じように愛おしんでくれる可能性は低い。
それでも人は放屁をせずにはいられないから、極力人に迷惑をかけないように、マナーを守って放屁する。
…という、本日の放屁。