瞑想オカン

ヴィパッサナー瞑想修行に勤しむ四十路オカンの日記

Interconnected

今日は朝から「デジタルで相互接続された世界における新たなビジネスリスクについて」というテーマの記事を書いていたのだが、先ほど情報の収集と整理が一段落し、記事の構成にもおおむねメドが立ったので、どれ、いっちょ気分転換に瞑想をするか…と座る瞑想を始めた。

 

座り始めて数十分ほど経った頃だったか、部屋の片隅で、それまで静かにしていたコザクラインコが甲高い声で一声鳴き、その声を聴いた時、それまで凪いでいた心に直前までとは違ったさざ波が立った。

その瞬間、さっきまで読んでいた文書に何度も登場したinterconnected(相互接続)という単語とともに「あっ、『世界と自分は一つ』というのはそういうことか!」という思いが鮮烈に頭の中でスパークし、その鮮烈さに自分で驚いて思わず目を開けた。

 

ヴィパッサナーを通じて知った仏教的な考え方によれば、生きるとはそこに心があることだ。そして心とは何かといえば、それは感じる働きであるという。

「心」という名前の何か特別な器官があるわけでも、脳と心がイコールなのでもなく、目・耳・鼻・舌・身・意の六つの門から入ってくる情報を受け取り、認識し、解釈して回転していく流れが心。

 

今、私の心は耳から飛び込んできたコザクラインコの鳴き声をトリガとして動き出し、それまでとは違う形の波を立てた。驚いて目を開いたらインコと目が合い、今度はインコが私の視線に気づいて止まり木の上でそわそわと身体をゆすり始めた。

その様子を見て、私の心にまた別の波が現れた。

 

心の流れが生きるということであるのなら、外側から来て私の心を動かすものも、ある意味私の一部なのではないだろうか。そして同時に、私の存在が別の生命の心に対してなんらかの影響を与えるのだとしたら、私はその生命の一部でもあるはずだ。

 

「世界は一家人類は皆兄弟」と昔、笹川会長が言っていたし、似たようなフレーズはこれまでにも何度も耳にしてきたと思う。
けれど、その耳慣れたフレーズを、以前とはまったく異なるレベルの納得感をもって、今、私は反芻している。

 

瞑想がもたらす気づきというのは、見たことも聞いたこともないような神秘的なものが「観える」ということでは多分ないのだろう。

美しい写真も拡大すればドットの集まりに過ぎない、というように、それまで当たり前に見ていたものが別の倍率で見え始める…瞑想体験は人それぞれであるからこれはあくまでも私の主観だが、おそらくそういうことなのではないだろうかと、今、そんな風に感じている。

 

慈悲と変容

先日、駅の待合室で座っていたら、泥酔した男性が入室してきて、見えない誰かを大声で罵倒し始めた。街へ出ればよくあることで、そういう時は目を合わせないようにして無難にやり過ごすのが、いつもの私のやり方である。

その時も手にしたKindleに目を落として、彼の方へは目をやらないようにしていたのだが、驚いたのは「怖いな」「早くどこかへ行ってくれないかな」といった感情がうっすら浮かび上がりかけてきたその瞬間に、
「この人の怒りが早く収まり、穏やかにいられますように」
という慈悲の瞑想のフレーズが、反射的に心に浮かび上がってきたことだ。

何の自慢にもならないが、以前の私は見知らぬ泥酔者の安寧を念じるような殊勝な人間では絶対になかった。ここ数ヶ月、朝晩といわず、ふとできた隙間時間や嫌なことが起きた時などに呪文のように慈悲の瞑想のフレーズを唱えていたので、パブロフの犬的に条件反射が刷り込まれていたのかもしれない。

いずれにしてもそのおかげで、彼が室内で怒鳴り続けているしばしの間、私は不愉快な思いを味わうことなく過ごすことができた。

 

 ※※※

 

この話を書いたのは、「私は慈悲の瞑想によっていい人間に生まれ変わりましたよ」みたいなことを吹聴したいからではない。
人の性質というものは、適切なステップを踏みさえすれば、自分が思うよりも遥かに容易に書き変わってしまうということに、我ながら驚きを感じたからだ。

 

慈悲の瞑想をやり始めたばかりの頃は、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
というフレーズを唱えるたびに、「これは偽善ではないのか」とでもいうような座りの悪い感情が心の中に渦巻いていた。それは、言ってみれば「私のように身勝手な人間がこんなフレーズを唱えるなんて、なんと空々しいことだろうか…」と斜に構えるような気持ちである。

それでもとにかくやってみようと、半ばノルマのように唱え続けていて、ある時「あれっ」と思った。慈悲の瞑想をやり始める前に比べて、ずいぶん生きるのが楽になってきたことにハタと気づいたからだ。

考えてみれば、自分と他人の幸せを等しく念じるということは、「私は敵を作りません」という自分への宣言のようなものだ。心の中から敵がいなくなれば、生きやすくなるのは当然だろう。

 

私たちには、「いい人」となることを心のどこかで危ぶむ本能があるが、敵を作ることを放棄していわゆる「いい人」として生きる方が、実際はずっと「楽」で「安全」な生き方なのかもしれない。

 たとえば歩きたばこをしている人を見て不愉快な気持ちになるよりは、「この人が歩きたばこで事故を起こしませんように」と祈る方が”気持ちがいい”。列に割り込んでくる人を心の中で非難するよりも、「この人の心が穏やかでありますように」と念じた方が、確実に"自分の気分がいい"。

 

一見他者の幸せを念じているように見えて、慈悲の瞑想で真っ先に幸せになるのは、他でもない自分自身なのだ。

「自分の幸せ」を求めて生きるのは身勝手なことかもしれないが、そういう穏やかな幸福感を身をもって体験していくうちに、次第に本心から「生きとし生けるものの幸せ」を願えるように変容していくのではないかと思う。

 

闘いからの卒業

生きている中でなにが辛いかといって、自分で自分を守ろうと必死になることほど辛くて苦しいことはない。

 
たとえば仕事でなにか失敗をして上司にこっ酷く叱られたようなとき、辛いのは失敗した瞬間でも叱られている間でもなく、「失敗して叱られている惨めな自分」を受け入れることが出来ず、なんとかして対面を保てないかと必死になって頭の中で言い訳を探している時ではないだろうか。
 
 
自我が幻だと気づくことでなぜ救われるのかというと、それに気づけば、もはや必死に「自分」を守る必要がなくなるからではないかと思う。
 
 
うっかり失敗してしまったときは、迷惑をかけたことについて関係者にひとこと詫びて、あとは事態を納めるためにやるべきことをやればいい。それでもどうしても心が騒いでしまう時は、生きとし生けるものの幸せをひたすら念じてみるのも良いと思う。
 
 
防衛というのは静的な戦いだ。
そして、戦いというのは苦しいものなのだ。
 
自我という幻を手放し、慈悲によって自他を隔てる垣根を取り去る努力を続けることで、私たちは闘いから卒業することができるのではないかと思う。
 

生活の中での瞑想

ヴィパッサナーを始めるまで、瞑想とは静かな場所で目を閉じ、じっと座ってやるものというイメージを持っていた。

 
確かにそういう瞑想もあるが、ヴィパッサナーとは詰まるところあらゆることに気づいてゆく瞑想なので、その気になれば起きているあいだ中、ずっと瞑想モードでいることもできる。
 
たとえば朝、目覚める時などでも、眠りから覚醒していく様子やもう少し寝ていたいという意識、立ち上がる時の足腰の軋みなど、目覚めてから布団を出るまでの数分間にも気づきの対象は色々とある。
 
尾籠な話で恐縮だが、以前、ある僧侶の方が何かのインタビューに、「私はトイレに入る時でもサティを入れています」と答えておられるのを読んだことがある。
それ以来私は、用を足す際にも、つとめて身体と心の様子を観察するように心がけている。
 
 
動きながらやるヴィパッサナーに地道に取り組んでいると、自分の体が、いわゆる「意識」にコントロールされることなく勝手に動いていることが分かってくる。
 
私の場合、最初にそのことに気づいたのは自宅でシャワーを浴びていた時だった。
「顔をこすりたい、手を挙げる、顔をこする、お湯をかける、首をこすりたい、手を下ろす、首をこする、お湯をかける…」
と心と体の動きをひとつなぎにして観察していて、ある瞬間に「あれっ?」と思った。
首を洗った後に続けて左腕を擦ったのだけれど、「左腕をこすりたい」と意識で思う前に、すでに右腕が左腕の上を滑っていたのに気がついたからだ。
 
最近の研究によれば、脳は「なにかをやろう」という意識が現れる7秒前に、すでに何をやるのかを決めていると言われている。
私はそのことをNEWTONだか何かを読んでちらっと記憶していたのだが、その瞬間、なるほど、これがそういうことか!と、強烈な納得感を得た。
頭で知っていたことと実感が結びつく体験には、長年住み続けているわが家の壁に隠し扉を見つけるような、一種不思議な高揚感が伴うように思う。
 
 
「私」を動かしていたのは「私」ではなかった。
「私」というのは一つの揺るぎない存在ではなく、たとえていうなら脳に住む無数の小人の集合体で、多数決の結果決められたことだけが「私」と呼ばれる表層意識に手渡されている…
 
「私」はそのことを、自宅の風呂場の踊り場に素っ裸で立ち、頭にシャンプーの泡をこんもり載せた間抜けな姿で理解した。
 
いつ、どこで、どんな気づきが生まれてくるかわからない。
生活の中でのヴィパッサナーには、そんなスリリングな面白さが潜んでいると思うのである。
 

Twitter瞑想

長いことBlogの更新報告しか流していなかったTwitterを、最近またちょっと積極的に眺めるようになった。

ヴィパッサナー瞑想や初期仏教に関心のあるご同輩方と、Twitter上で緩やかな繋がりを持てたことがそのきっかけだ。
 
改めて使い始めてみて思ったのは、Twitterヴィパッサナー瞑想や八正道の修行に、案外役立つツールだということだ。
 
 
私は物を書く人間で、もともとSNSなどに何か投稿するのは割と好きな方である。放っておけば思いついたことを何でもかんでもツイートしたくなるのだが、そこを一旦踏みとどまって、ツイートしようとしている自分の心を観察する。
そして、「いまから呟こうとしていることは、果たして正語の定義から外れていないだろうか」ということを、ちょっと考えてみるのである。
 
食事をしながらする瞑想が食べる瞑想だとすれば、さしづめこれはTwitter瞑想とでも呼べばよいだろうか。
 
 
ただしこれには一つ問題があって、その瞬間の自分の心を冷静に観ると、その大半が慢心から出る無意味なおしゃべりに思えてしまうのだ。
私の心は、よほど分厚い無明の雲で覆われているらしい。
 
それで結局、10回のうち8回くらいはツイートしようとする気持ちが失せて、投稿フォームを閉じることになる。
 
 
ツイートするという行為や、ツイートされる言葉そのものには、善も不善もないだろう。肝心なのは、ツイートを流そうとするその瞬間の自分の心のあり方なのだ。
 
人に役立つ善い言葉をきれいな心で語れるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだが、独り坐して心を観るのとはまた違った修行の場を、Twitterは与えてくれる。
 
 

無常、無我、苦

デジタルの時代に生きる私たちは、「無常」「無我」の真理に気づく糸口を得るということに関して、とても恵まれた環境にあると思う。

あらゆるものが刹那ごとに生滅を繰り返しているということは、コンピュータの中で展開される世界が実は0と1(電流のオンオフ)だけで表現されている、ということを知っていれば割と抵抗感なく納得できる。

また、確かにそこに「在る」ように思えるスマホのアイコンは、実は絶え間なく流れ続ける0と1(生滅)の羅列でしかなく、スマホという「因」と設定情報やユーザ操作などの「縁」によって一時的にそこに「見えている」だけである。
そこから漠然と「無我」をイメージするのは、ゼロベースから無我を理解するよりは容易いのではないだろうか。

 

けれど、その理解から「だから生きることは苦なのである」という究極の真理に至るのは難しい。
なぜなら私たちは、デジタルの世界の中にわが身を置いているわけではないのだから。
プログラムコードにもしも人格があったら、苦労して出した演算結果が瞬時に流れ去って揮発することに「苦」を見出すかもしれないけれど…。

 

人に聞いて得た知識と、自ら学んで得た知識、そして体験によって得た知識は違う。
だから、どれだけ恵まれた環境に身を置いていたとしても、「頭でわかった気になる」だけでなく自ら体験して真の理解に達するために、地道に修行の道を歩き続けていかなくてはいけないのだと思う。

 

瞑想と姿勢/2016年8月31日 

なにか新しいことを学ぼうとする時、異なる著者が書いた複数の本を並行して読むクセがある。
昔から「複数の異なる領域に共通する事柄は真理に近い」というような感覚が私にはあって、そうしたものに暗に影響されているのかもしれない。

一人の意見にはどうしても某かの偏りが出るが、複数の意見を集めて共通点を抽出していく…オブジェクト指向でいうところの汎化(抽象化)の作業を行っていくと、そのテーマに関する重要な事柄が浮かび上がるのではないか、と思うのである。

 

ヴィパッサナー瞑想を始めた時も、異なる国の異なる僧侶の方が書かれた本を何冊か読ませていただいた。

スリランカ、タイ、ミャンマー、あと、僧侶ではないが、アメリカ人の著者がゴエンカ氏の瞑想法について紹介されている書籍…etc。
ヴィパッサナー瞑想は2500年前にブッダによって編み出された修行法であり、そういう意味では根底に流れるものはどれも同じだといって良いのだろうけれど、瞑想のやり方や修行を進めて行くプロセス、瞑想時の心構えなどに関する記述には、それぞれ微妙に違いがある。

 

そんな中、全ての本が口を揃えて言っていたのが「坐る瞑想をするときには背筋を伸ばして座りなさい」ということだ(もちろん、このほかにも共通点はあるけれど…)。

だから私は割と始めの頃から、姿勢は瞑想にとって重要なファクターなのだろうな、と漠然と感じていた。

 

当初なんとなく思っていたのは、いわゆる精神鍛錬的な話なのだろうな、ということだった。

「いやしくも修行をするのであるから、だらだらしないでシャンとした姿勢を保つべし」

とでもいうような。

 

しかし瞑想を続けていくうちに、実は背筋を伸ばした方が座るのが楽なのではないかということに気が付いた。
子供のころから「背筋を伸ばしなさい!」と叱られながら育ったので、背筋というのは人から強制されて嫌々伸ばすものなのだと無意識に思っていたが、改めて人の体の構造を考えてみると、骨盤を少し前傾させ、その上に背骨をのせてバランスを取った方が楽なのは明らかだ。

 

次に気が付いたのは、背筋を伸ばすと身体だけでなく心がピッとする、ということだ。
「ピッとする」というのはどうにもあいまいな表現だが、なんというか、気持ちが引き締まる。
「笑顔を作ると楽しくなる」と言われるように人の感情は意外と身体に引きずられるものだが、要するにそういうことなのだろうかと思っていた。

実際、背筋を伸ばしている時の方が、身体や心の細かい感覚にも気づきやすい。

人の脳と身体は背骨の中を走る神経で結ばれているわけで、その通り道をあるべき形に整えた方が「通りがよくなる」のは、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。

 

そして、最近になってハタと気づいたのが、「背筋というのは、『伸ばそう』という意思がなければ伸ばしていられない」ということである。

こうやって文字にすると当たり前のことのように思えるけれど、瞑想中にその事に気付いた瞬間のインパクトは大きかった。

 

瞑想中に意識が逸れて瞑想が妄想になる、というのは誰にでもあることだと思うが、私の場合、座る瞑想中にそのような状態になると、決まって体が著しく前傾しているのに気づく。

それで、「おっと、いかん、いかん…」と体を立て直してもう一度お腹の動きに集中する、ということを繰り返しているうちに、集中というのは何分、何時間の単位でやるものではなく、毎秒単位で繰り返すものなのかもしれない、ということに気がついた。

 

「3分間の集中を1回やる」のではなく、「1秒間の集中を180回繰り返す」。

実際の単位時間は秒よりもっと短いのだろうけれど、イメージとしてはそういう感じである。

このことに気がついてから、瞑想中に意識が逸れることが大幅に減った。

 

子供の頃、学校帰りの長い坂を上り続けるのが辛くて、足元に目を落として歩いていたことがある。まだまだ先が長い、と思うとつい心がくじけるが、今この瞬間、一歩を踏み出すだけならなんとかなる。それを繰り返しながら、長い坂道をやり過ごした。

 

多分、瞑想も同じことなのだ。

世界はこれまでと変わらぬ姿でそこにあるが、それを捉える粒度が変われば、見えるものが変っていく。

そして、全てを最小の粒度で捉えられるようになった時に、この世界の真の姿に気づくのだろう。