狡猾な怒り
人間には三つの「悪」があるという。
一つめは欲、二つめは怒り、三つめが無知。全ての人にこれら三つの悪が備わっているが、どれが強く現れるかは人それぞれのようだ。そして、その傾向によって瞑想修行のテーマも微妙に変わる。
私のテーマは間違いなく「怒り」なのだが、怒りにも色々な形がある。
何度も書いているように、ヴィパッサナーを始めるきっかけとなった激しい怒りと憎しみのような感情は、おかげさまで随分抑えられるようになってきた。しかし、怒りは一見そうとは思えない様々な感情に姿を変えて、いまも狡猾に私を操ろうとする。
たとえば、人の言動を批判したくなる気持ちの源泉は怒りである。人間は他人を批判する時、自分がその人より正しく尊い立場に立っていると無意識に思うものなので、そのカタルシスに騙されて、底に潜む怒りにはなかなか気づけない。そして、気付けないままに自分で自分の心を汚してしまう。
怒りや慢心がよくないのは、それが結局自分を苦しめる「因」になるからだろう。苦しい境遇に陥ると、人は周囲に迷惑をかける。結果として色々なことが悪い方向へと動いていく。だから、
「やれやれ、あんなことして見苦しいな…」
「あの人はもっとこういう風に振る舞えばよいのに」
「あの人の主張は間違っている」
…などという批判の気持ちが湧いてきたら、「私は正義を行使している」というまやかしの恍惚感に騙されることなく、自分が自分に向かって毒を吐いているのだと気づかなくてはいけない。
瞑想モードで自分を見ていると、そういう狡猾な怒りが絶え間なく生まれているのがよくわかる。生まれてしまったものは仕方がないが、それをそのまま放置しておくと、感情は雪だるま式に膨らんで手のつけようがなくなってしまう。だからできるだけ早めに怒りに気づいて、それ以上膨らませないように心がける。
自分の主張がいかに正しく思えようと、それが唯一絶対の真理であるなどと言うことはありえない。仮にそうであったとしても、敢えてそれを盾に他国侵略を試みて、自軍を消耗させる必要もない。
まぁ、口で言うほど簡単にはいかないこともあるけれど…。
私は仏教をきちんと学んでいないので正確なことはわからないが、無常、無我、苦や因果の法則を「観る」ことだけがヴィパッサナー修行の「ゴール」なのではないのかもしれない…と最近は考えるようになった。
そういうことがある程度腑に落ちたら、そこから先は行いを慎み、自分とも他人とも争わない生き方を心がけるという次なるステージが始まる。
そうやって自分を苦しめる原因となる心の汚れを剥がしていくのが、ヴィパッサナーという修行法の本質なのではないかと、そんな風に思うのだ。
心を留める
ヴィパッサナー瞑想を始めたばかりの頃、腹の膨らみ凹みに心を留めておくことができなかった。
自分はそうしようと思っているのだが、心は勝手にあちこちへ散らばってしまう。その原因がいわゆる「無我(あるいは非我)」にある、ということが腑に落ちてからも、「分かっちゃいるけどやめられない」状態は割と長く続いたと思う。
それが、ある時から急に心を腹に留めておくことができるようになった。
その背景には「ヴィパッサナーを続けた結果心がちょっと落ち着いてきたから」ということがあるのかもしれないが、端的にいえば「コツを掴んだ」ということなのではないかと個人的には理解している。
うまく伝えられるかどうか自信がないが、それまでは「腹の膨らみ凹み」をざっくり一つの対象として、遠くから漠然と眺めていた。でも、そうではなく「膨らんでいくプロセス」「凹んでいくプロセス」の一部始終を穴のあくほど凝視し続ける、それこそが「集中する」ということなのではないかと、ハタと気がついたのだ。
腹の動きを「膨らみ」と「凹み」のたった二つに切り分け、呪文のように「膨らみ、膨らみ」「凹み、凹み」と唱えながら漫然と観ているだけでは、心はすぐに退屈してしまう。退屈するからよそ見をする。
しかし、膨らんでいく過程、凹んでいく過程の皮膚の感覚や筋肉の動きなどを一部始終凝視していると、これはなかなか面白い。腹を膨らますためにどの筋肉が動いているのかとか、さっきの膨らみと今回の膨らみはどこが違うだろうかとか、見所はたくさんあるので飽きるということがない。退屈しないから、心はずっと一つのところに留まっている。
このことに気づいて以来、瞑想中のみならず日々の生活の中でも、割と自由に集中力を使えるようになったと思う。
ところで、私は瞑想といえばヴィパッサナーで、サマタ瞑想のようないわゆる集中系の瞑想をしないので、「瞑想中に光の玉があらわれた」とか「なんともいえない恍惚とした境地に至った」みたいな体験はついぞしたことがなかった。
けれど、前述のコツを掴んでからしばらくした頃、腹の膨らみ凹みをマニアの目線で凝視している最中に、体の中からまばゆい光が外側に向かって広がっていくような感覚が生じ、「なるほど、これがそうか」と思うことがあった。
マハーシ長老という方の「ミャンマーの瞑想」という本に「修行の成果として、体から多かれ少なかれ光明が出ます」というくだりがあって、初めて読んだときには「そんな馬鹿な…」と半信半疑だったのだけれど、あくまでも「自分自身の世界の中で」ということであれば、確かに光明は出た。
その光明は人に見えるものではないし、仮に見えたとしても見せて得意がるようなものでもないけれど、「心を一つのところに留めておく」という簡単なようで難しい技をなんとか身につけた、という一種の目印のようなものだと考えることはできるのかもしれない。
ヴィパッサナー冥想で何を「観る」のか
ヴィパッサナーで観る対象は、大きく四つある。
一つ目は身体、二つ目は感覚、三つ目は心、四つ目は法。身体を観るのは身随感、感覚を観るのは受随感、心を観るのは心随感で、法を観るのが法随感。
私が漫才師なら「そのまんまやんけ!」とツッコミを入れるところだが、ともあれ一般にはそのように呼ばれているようだ。
四つといってもこれらは全て関連しているため、どれか一つを特に選んで「今日は受随感で行こうっと♡」…というような事ではない、と思う。
そういうやり方も出来るかもしれないが、苦から自由になろうという目的から考えて、身体や感覚や心だけを眺めることにあまり意味はないだろう。ヴィパッサナーの理論をきちんと学んだわけではないのであくまでも私的体験からの推測ではあるが、人を苦しみから自由にする鍵は、多分4つ目の「法」が握っている。そして、この「法」は身体、感覚、心をまとめて観察することによって観えてくるものなのではないかと思う。
ヴィパッサナーの実践は、たいていは身体を観るところから始められる。それはおそらく、慣れないうちは身体の方が観察しやすいからで、観察力が付いてくると自然に感覚や心に意識が向き始める。
そこまでは割と自然に進むのだけれど、心の観察から「法」の観察進むのには若干コツが必要だ。
法、という言葉を仮に「法則」と置き換えて(本当はもっと広い概念らしい)考えると、法則を発見するための近道は、物事の繰り返しの中からパターンを見出すことだろう。何度も繰り返し現れる類似パターンを観察しているうちに、心の中で汎化(抽象化)の作業が行われ、その結果として法則が浮かび上がってくる。
体験から智慧を得るというのは要するにそういう事なのではないかと、今のところはそう理解している。
瞑想を続けるうちに、いわゆる「サティの高速化」みたいなことが起こってくると、面白いのでついそれにとらわれてしまう。そういう体験をした自分が、なんだか特別な存在になったような気がして、ついつい人に吹聴したくなる気持ちなども現れてくる(実は私もアメブロに結構書いた)。
でも、高速に現れたり消えたりするその現象を見続けているだけでは、苦しみから自由になるのは難しい。
法を観る、という言葉は仰々しいが、実際にすべきことは割とシンプルで、ポイントはおそらく「流れの一部始終を隙間なく見続ける」ということだ。
たとえば、「さっきまでなかった怒りがいま現れた」「現れた怒りがなくなった」「怒りがなくなった状態が続いている」という流れとその流れに伴って変わる身体や心の状態を観察すると、「怒りがあると眉間が重苦しくて頭が痛いし、心も重い。怒りがなくなった瞬間に心も体もとても軽くなる」みたいな傾向が見えてくる。そこから、「怒りは何の得にもならない」というある種の「智慧」が生じる。
「腹の膨らみ凹みから悩み事に意識が飛んだ」「悩みから腹に意識を引き戻した」「また飛んだ」「また引き戻した」「引き戻したまま腹に意識を留め続けた」…というのを観ているうちに、「腹に意識がある間は、悩みは心から消えている」ということが分かってくる。そうすると、「なんだ、悩みというのは外側の原因ではなく自分の心が作っているのだな」ということが腑に落ちる。
「さあ、法を観るぞ」と大上段に構えるのではなく、ただじっと観察するだけなのだが、一つの対象だけに留まるのではなく流れを眺めるというのが、なんとなく大切なのではないかと思う。
ちなみに、こういう話は実は「大念処経」という仏教の経典に一から十までちゃんと書かれているのだけれど、私がその存在を知ったのは割と最近のことだ。私は大変せっかちなのでこういう原典をすっ飛ばして近道を行くくせがあり、過去にもこれと似たような経験を何度もしてきた。
しかし、やはり何事においても「原典にあたる」ことが大切である…と、これも一種の法随感と言えるかもしれないなぁ。
「引き戻し」のプロ
悩みや苦しみから自由になるためのたった一つの方法は、悩んだり苦しんだりするのをやめること。
なにを禅問答みたいなことを…と思われるかもしれないけれど、突き詰めて考えるとそういうことになるのではないかと思う。
悩んだり苦しんだりするのをやめられるようになる過程で、獲得するものが二つある。
一つは仏教でいうところの智慧で、もう一つは自分で自分の心をコントロールする技術。智慧だけで救われる人、技術だけで楽になる人、もっと他の要素が必要な人もいるかもしれないけれど、私の場合はこの二つが必要だった。
智慧というのは、「自分とは思っていたような自分ではなかった」とか、「外側で起こることとそれによって自分の中に生まれる感情は不可分なものではない」とかいうような物の見方を根底から覆すような気づきのことで、これは本を読んで理解することもあるだろうし、瞑想を繰り返す中で徐々に気づいていくこともあるだろう。
いずれにしても、そういう意識改革が起こると、それだけでずいぶん楽になる。悩んだり苦しんだりするのは馬鹿らしい、という感覚が生まれ、悩み苦しみが生じても、気持ちの整理がつけやすくなるからだ。
でも、そのようにして視点が切り替わっても、悩みや苦しみ、怒りといったネガティブな感情がまったく生まれなくなるわけではない。
感情は、それまでの人生でコツコツと刻み付けてきた脳の回路から半自動的に生成される。その流れを止めるためには、回路自体を書き換えるしかない。これは「五戒を守る」とか「八正道を実践する」とかいった形で生き方を整えていくことにより可能になるとおもわれるが、完全に回路を綺麗にするにはそれなりに時間がかかるだろう。
そこで、さしあたっては「生成されてしまった感情に囚われない」ことを心掛けるのだけれど、そのために必要になるのが、二つ目の「自分の心をコントロールする技術」である。
この技術は、おそらく本で読んだり人から聞いたりしただけで身につけるのは難しいが、生まれつきこれが得意な人もいるようにみえる。
獲得の方法は特に難しくはなく、普通に瞑想を続けていると、そのうち自然にできるようになってくる。
座る瞑想でも立禅でも、あるいは歩く瞑想でも手動瞑想でも、やり方はどれでもよいけれど、瞑想をしているといわゆる「妄想」「雑念」と呼ばれる思考が無意識のうちに湧いてくる。湧いてきたらそれに気づいて、腹なり手なり足なりにまた意識を引き戻す。
あたかも好奇心旺盛な子供がチョロチョロするのを引き戻し、引き戻ししながら買い物をする母親のように、彷徨う意識を引き戻し、引き戻ししつつ瞑想を続けていくと、いつしか「引き戻しのプロ」になる。
そうして彷徨う心を自在に引き戻せるようになった頃、日常の中で湧いた感情をそれなりに制御できるようになっている。
全ての煩悩を断つには、先に述べたように脳の回路を書き換えて「感情が湧かない回路」を作るしかないと思うのだが、人間社会で普通に生活しながらそれを成し遂げるのは多分難しい。
しかし、智慧とセルフコントロールの技術を身につければ、少なくとものべつまくなし苦しみ続けて生きる暮らしからは抜け出していけるのではないかと思う。
そんなわけで、「今日の瞑想は妄想が止まらず失敗だった」というような話をたまに聞くけれど、個人的には、妄想だらけの瞑想の方が心のトレーニングとしては有効なのではないか、とちょっと思っている。妄想が湧けば湧くほど、引き戻しトレーニングのチャンスが増えるのだから。
ヴィパッサナーは、「心を静かにしてじっと待っていたら天の声が智慧を授けてくれる」というような神秘的な瞑想では多分なく、ただ黙々と続けていくその過程から「自分が」「自分で」何かを拾い出す、そういう「修行」なのだと思う。
ヴィパッサナー修行を続けていくと、よいことは確かに起こってくる。でも、その起こり方は高い確率で期待していたものとは違う。
「瞑想に何かを期待するな」という先達の言葉は、もしかするとそういうことを表しているのかもしれない。
「無我」の理解
「無我」を理解するはじめの一歩は、「『自分』は自分が考えていたような『自分』ではなかった」というような感覚だったと思う。
「自分」の中には複数のいろんな「自分」がいて、そういうたくさんの自分の合議制で「自分」というものが成り立っている。このような主張は最近脳科学の脳科学の本などにもよく見られるけれど、ヴィパッサナーで自己観察を続けていると、そういうことが理屈ではなく体感として分かってくる。
それは、「瞑想によって特殊能力を得たから分かるようになる」というような神秘的な話ではない。
「『自分』は腹の膨らみ凹みに集中しようとしているのにふと気づくと別のことを考えている」とか、「背中に痒みが生じた時、『搔こう』と明確に意識する前に勝手に手が動いている」といった奇妙なズレのようなものが、集中して観察していると普段より鮮明に分かる。
はじめは「あれっ?」というくらいの小さな違和感なのだけれど、それを日々繰り返し見続けているうちに、「ああ、やはりそういうことなのだな」という納得感が生まれてくる。
自分が自分だと思っている自分は「自分株式会社の代表取締役」のようなもので、その背後には何万、何億という従業員が控えている…そういうイメージがなんとなく出来上がってくる。難しい言葉で言うと、「固定化された自我が解体され始める」ということなのかもしれない。
この視点の切り替わりによって何が起こるかというと、自分を縛りつけていた責任感の重みのようなものがまず消える。
怠けや怒り、醜い嫉妬のような感情が湧き上がっても、それは自分が好きでそうしているわけではない。その瞬間の記憶や脳の回路の状態によって不可避的にそうなっているのだから仕方がないではないか…というある種の諦め・開き直りのような状態になり、結果として心が少し楽になる。
つまり、何か悪い感情が生じた時に「醜いことを考える自分」を自己嫌悪して苦しむのではなく「うちの部下がスミマセン」とでもいうような感覚になってくる。
そして、部下のために頭を下げるのも愉快なことではないから、その不愉快を取り除くために悪感情の「因」となるものを心から排除していこう…という気持ちが生まれてくる。
そこから更に観察を続けていくと、自分の中にいる無数の自分も固定化された存在ではないのだな、ということが見えてくる。今この瞬間に「背中が痒い」と感じている自分がいても、それは自分の中のどの部分なのかを特定することができないし、その自分と10分前にも同じ場所を痒がっていた自分も完全に同じではあり得ない。
そうすると「なるほど、自分株式会社の従業員は正社員ではなく、日雇いで入れ替わり立ち替わりする派遣労働者のようなものなのだな」という視点が生まれてくる。
最終的には代表取締役である表層意識すら固定化されたものではないのだな、という理解にたどり着く。なぜなら、表層意識として感じている感覚・心の動きすら、刻一刻と変わってしまうから。
そして、「自我とはこのような曖昧なものだったのか」「ならば、自分の感情に執着したり、喜びや苦しみに一喜一憂しても仕方がない」と思うようになる。
そうこうするうちに心が落ち着いてくると、自分の中だけでなく周囲の世界を同じような視線で眺められるようになってくる。
「自分は思っていたような自分ではなかった、ならば他人もおそらく同じだろう」という感覚が生まれ、自分と同じように曖昧に変わり続ける自分に振り回されている他人に対して、怒ったり期待したり失望したりするのはナンセンスだと思うようになる。
…これはあくまでも私自身が辿ったプロセスで、他の人がどのような道筋を辿るのかはわからないけれど、話を聞いていると大体このような流れになるのではないかと思う。
私は仏教徒ではなく、仏教的な悟りや解脱にさほど強い関心はないけれど、今のこの境地は私にとって心地よいものだ。この状態を保ち続けるためにヴィパッサナーを続けているし、これからも続けていこうと思っている。
かつて激しい怒りを消したい一心で始めたヴィパッサナーは、今、私にとって心のメンテナンスのために通う整体院のような存在となったといえるかもしれない。